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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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イザヤ書52・1~10

2023年12月3日

 奮い立て、奮い立て
力をまとえ、シオンよ。
輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。
無割礼の汚れた者が
あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
 立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。
首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。
 主はこう言われる。
「ただ同然で売られたあなたたちは
銀によらずに買い戻される」と。
 主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。  そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。
 いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ
あなたの神は王となられた、と
シオンに向かって呼ばわる。
 その声に、あなたの見張りは声をあげ
皆共に、喜び歌う。
彼らは目の当たりに見る
主がシオンに帰られるのを。
 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。
主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
 主は聖なる御腕の力を
国々の民の目にあらわにされた。
地の果てまで、すべての人が
わたしたちの神の救いを仰ぐ。

2023年12月2日

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

2023年12月1日

 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

クリスマスにガザの平和を願う
――ロバに乗ったメシアによる戦争放棄と平和の宣言――

  9大いに喜べ、娘シオンよ、
歓声を上げよ、娘エルサレムよ。
見よ、あなたの王があなたのもとに来る。
彼は義とされ、救われた者である。
貧しく、ロバに乗る者、
雌ロバの子である雄ロバに。
10わたしはエフライムから戦車を、
エルサレムから軍馬を断つ。
戦の弓は断たれ、
彼は諸民族に平和を語る。
彼の支配は海から海にまで、
大河から地の果てにまで及ぶ。
(ゼカリヤ書9章9−10節[私訳])

 ヘブライ語聖書(旧約聖書)にはシオニズムを正当化する言葉があり、そのことからユダヤ教の総体が現在のイスラエルを全肯定していると勘違いしてしまう向きがあります。しかし、歴代のラビたちはユダヤ人のディアスポラ(離散状態)ないしガルート(追放状態)を自分たちの罪を償うための宗教的義務と解釈し、その系譜に連なる現代のユダヤ教超正統派(ネトゥレイ・カルタ)はシオニズムに断固反対の立場を表明しています。ユダヤ教徒が一様に現在のイスラエルを支持しているわけではないのです。それと同様にヘブライ語聖書が一様にメシアの武力による世界統治を肯定しているわけではありません。
 その典型が冒頭に引用したゼカリヤ書9章9−10節のメシア預言です。ここに登場するメシアは能動的に「救う者」(救済者)として世界に君臨しているのではなく、受動的に「救われた者」(新共同訳「勝利を与えられた者」、協会共同訳「勝利を得る者」)であり、貧しく、ロバに乗るメシアなのです。このメシアは全イスラエルから戦車と軍馬を、そして全世界から弓(武力)を断つことによって、世界中の人々に平和を語るのです。イエスのエルサレム入場がロバに乗った姿で描かれているのはユダヤ教の平和のメシア像を体現するものであり、古代ユダヤのラビ文書にはロバに乗った平和のメシアが繰り返し登場するのです。
 1948年のイスラエル建国によって事態が一変してしまったとはいえ、パレスティナ人は長い間、土着の民としてパレスティナの地に暮らし、そこでユダヤ人を隣人と遇して暮らしてきたのです。そして、イスラエルにはパレスティナ人の土地を奪うことを忌避し、共生を願う人たちがいるのです。イスラエルのメシアはロバに乗った平和のメシアであり、イスラエルによるパレスティナの武力統治や戦争がユダヤ教信仰に反していると信じているのです。
 翻って、キリスト教を省みると、その姿は平和の反対に身を置き続けてきたようにすら感じられます。ロバに乗った平和のメシアの系譜を継ぐイエスの誕生を祝うクリスマスに、キリスト教こそが武力ないし戦争を放棄し、世界に平和を語る責務があるとは言えないでしょうか。クリスマスにガザの平和を願います。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一

「最高のヒーラー」

聖書個所:「主よ、あなたがいやしてくださるなら わたしはいやされます。
あなたが救ってくださるなら わたしは救われます。
あなたをこそ、わたしはたたえます。

エレミヤ書17章14節

蕃山町教会
牧師 服部 修

  

 ところでなんですけど、ドラゴンクエストってRPG あるじゃないですか?そう私が好きなやつです。
 ドラゴンクエストに限った話ではないんですけど、ああいうRPG やっているとダメージを受ける地形とか、ダメージを受ける床ってあるのご存知ですか?
 例えばドラゴンクエストだったら毒の沼ってのがあるし、あるいは溶岩とか。そういったものがあるんですよね。
 多分知っていると思うけど、毒の沼って、歩いていると主人公の体力が減っていくんですよね。沼の種類によって減り方が全然違ったりするし、でも減っていくんですよ。それでも毒の沼にどうしても入らなきゃいけない場合とかあるし、毒の沼の中に重要なアイテムが置かれていたりとかするので、避けられたらいいんだけれども、避けて通れないようなところに置かれていることあるんですよね。
 主人公が例えば回復魔法みたいなものを持っていたら、毒の沼を歩いて体力がどんどん減っても自分で回復魔法をかけて、力尽きないようにできますよね?
 あるいは回復アイテム。ドラゴンクエストだったら薬草とか。そういったのがありますけれど、そういったものをたくさん持っていって回復魔法がない時なんかは薬草をいくつも持ち歩いて、毒の沼を歩いて体力が減ってきたら薬草を飲むみたいな感じで冒険するわけですよ。
 そういう毒の沼を歩きながら体力が減っていくというゲームシステムをやりながら、私ふと思ったことあるんですよ。
 何かっていうと私たちの人生も、毒の沼を歩いているようなものじゃないかなっていうことなんですよ。
 実際、私たちが生きている時にはいろんなことに出会うじゃないですか。もちろん嬉しいこともあるし、そうでないこともあるし。いろんな形で、若いなら若いなりに、年を取ったら年を取ったなりにダメージ与えられることって結構あるじゃないですか。人それぞれですけれど。
 じゃあそのダメージをどうしても受けながら歩いているということを考えた時に、ああ、人間の人生って毒の沼歩いているようなもんだなっていうことを最近つくづくと感じるんですよね。
 最初に言ったように毒の沼歩く時に、回復魔法持ってれいばいいです。でも私たち回復魔法持っていないし、持っていない状態でもし冒険を始めたとすると、回復アイテム、ドラクエで言うと薬草ですよね、そういったものを持ち歩かないといけない。
 だから、私たちが人生の中で人生の毒の沼でダメージを受けた時に、どうやってそのダメージを回復するかということがやっぱり人生を送っていく上で、大事な点になるんじゃないかなっていうふうに思わされるんですよ。
 さっきも言ったように毒の沼にも宝箱があって、例えば毒の沼の中にも時々薬草なんかも落ちていて、ああ、助かったっていうようなことも時々はあったりして、なんとかなんとか毒の沼を切り抜けて冒険するみたいなのがあるんですよね。でも最終的にその回復アイテムが全くなくなってしまったら体力が 0 になるし、そこで力尽きてしまうわけですよ。
 ゲームだったら毒の沼っていうのは範囲が決まっているので、ある程度歩いて抜け出すことってできますけど、私たちの人生の毒沼って抜け出す場所ないんですよね。そうするとやっぱり私たちはどうやってダメージを受けた時に力尽きることなく生きていくことができるのか、みたいなことがやっぱり大事になってくると思うんですよね。
 つまりそこで、私たちが生きていく上で私が傷ついた時に回復してくれるもの、あるいは回復してくれる人ってのは大事になると思うんですよね。
 ドラクエの話に戻りますけど、ドラクエの11人で旅をして、 2 になるとパーティーシステムっていって複数の人と一緒にゲームの中で冒険ができるようになるんですよ。
 自分は回復魔法持ってないし、回復アイテムも持っていない、という状態で考えた時に、もし自分のパートナーが回復アイテムも回復魔法も持っているとしたら実際心強いじゃないですか。私これだなって思うんですよ。
 話は聖書の方に行きますけど、旧約の預言者の中でエレミヤって人がいるんですよね。有名な預言者ですけど、そのエレミヤっていう人がある預言の中でこういうこと言うんですよ。神様に向かってね。
 「あなたが癒してくださるなら私は癒されます」って。「主よ、あなたが癒してくださるなら私は癒されます」。これ明らかに自分では回復できないから、神様、私を癒してください。それこそ毒の沼、歩き続けてもう体力危ないです。いや、もしかしたら体力もうゼロです。神様私を癒してください。回復魔法をかけてください。そしたら癒されるっていう風に言ったんじゃないかなって私思うんですよ。

 私たちが何で神様を信じるとか、何でイエス様を信じるかと言ったらやっぱり私が人生で傷ついたり倒れたり、もう動けないって思ってしまうような時に、私を癒してくださる神様、私を癒してくださるイエス様がおられるから
 だから私たち毒の沼という人生を歩いて傷だらけになって、歩く度ごとに体力が減っていっても何とか癒されて生きていけるんじゃないかなっていう風に思うんですよね。
 体力が有り余っていたら、まだ毒の沼歩けるだろうとか、もう少しいけるだろう、 とかそんな感じで人生生きていけるんですけど。でも実際問題私たちの体力って限界があるし、自分で自分を癒すことはできないし、回復アイテム、ちょこっと見つけたかもしれないけど、でもそんなものはすぐになくなってしまうし。そう考えると無限に私のことを赦してくださる、癒してくださる、そういう人を人生のパートナーにするのが、実は毒の沼を歩いてダメージばかりを受けて生きる私たちにとって、一番実は大事なことなんじゃないかなって思うんですよね。

 「あなたが癒してくださるなら私は癒されます」。きっとそれは私たちがイエス様を信じた時に、あ、本当に私は赦されているんだ。私は神様の子どもとして愛されているんだ。どんなに人生の毒の沼でいろんなことに傷ついたり倒れたり、あるいは動けなくなってしまうことがあったとしても、「大丈夫。私がいるから」ってイエス様が言ってくださると思うんですよ。
 そう考えると私たちの人生って、最高のヒーラー、回復してくれる人をヒーラーと言うんだけど、私たちが人生のヒーラーであるイエス様を信じて生きていくということが、私たちにとって必要なことなんだなっていう風に思うんですよね。
 だから、イエス様を信じて生きていけば、どんな毒の沼の人生でも私たちは大丈夫。そのことをぜひ信じてもらいたいなと思うし、またそのことを信じて、いつでも「イエス様、癒してください。イエス様、助けてください」と呼びかけ、そうやって傷つきながらも癒され続けて生きていけたらいいな、とそういうふうに思っているんですよね。
 あなたもね、そういうふうに生きてもらえたらな。そう思っています。

 

愛猫 フクちゃん

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