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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【5013号】教区議長コラム(3面)

2024年1月27日

讃美に臨在される主

沖縄教区副議長
具志堅 篤

 去る 1月7日・ 8日、高原教会を会場に年頭修養会が実に4年ぶりに対面開催された。自粛しても萎縮するな!と言い聞かせながらコロナ禍を過ごしてきたが、小さな教区の中で延べ人数47名の参加者には励まされた。が、これは修養会の報告ではない。
 開会礼拝において川﨑正志牧師は「ことりたちは」 (こどもさんびか)をなぞるようにして小さき者に注がれる神の慈しみを語った。私自身何かお手伝い出来ることがあればと、讃美のリードを引き受けギター伴奏で「誰もみたことのないことが」を会衆と共に歌い、カホンを叩きリズムを取りながら「てんにいますわたしたちのちち」(主の祈り)を祈った。
 二日目の午後に「讃美を共に」27歳の青年信徒・玉城遼太郎さん(兼次伝道所)による讃美を聴いた。遼太郎さんは早産で母の胎から仮死状態で生まれ、母子手帳には「蘇生」と記された。「水頭症」と告げられ僅か 1200gの小さな体で手術を受けた。神から与えられた命への感謝が遼太郎さんの成長を支えた。高校卒業までに6回も手術を受けた。母親の凉子さんは音楽をリハビリに用いた。楽器や歌、音楽を通じて良き仲間に恵まれた。彼の歌唱の賜物はさらに磨きがかかる。そして、賜物を見出してくれた教師が与えられ、今、彼はこの教師と一緒に礼拝堂で神様から与えられた素敵な声で讃美を捧げている。
 聴く者たちに込み上げてくる感動は単なる感動ではなかった。それは神の臨在に触れる瞬間だった。その時、会衆の心は「イスラエルのさんびの上に座しておられる主」(詩編 22・3)に向かっていた。私は思った。常に命を与えてくださる主に向かって礼拝を捧げる者であり続けたいと。栄光在主

イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12・17)

 安倍晋三元首相銃撃により、宗教と政治との関係が注目されている。シリーズ「問われる宗教と“カルト”」という番組で、憲法学者の駒村圭吾氏が、日本国憲法20条と24条に触れて次のように語っていた。「20条の信教の自由と政教分離は、国家神道的なある種の神権国家体制とはもう決別するということであり、このことを最高裁は何度も強調し、国家神道に対する反省からこの条文は導入されたと繰り返している。他方婚姻における両性の平等を規定している24条は、かつての家父長的な家族観、あるいは封建的な家族観と、袂を分かつということで導入されている」と。さらに続けて「しかし、現実はこの二つの領域が常に先祖返りしようとする動きが必ずある」とのこと。政教分離が骨抜きにされている例として、安倍晋三元首相の国葬を挙げている。
 このような考えを進めると、2月11日の建国記念の日を祝うことや、政治家の靖国神社参拝、国旗掲揚・国歌斉唱の強制も神権国家体制への回帰を目指しているものだと言える。建国記念の日は、神武天皇の即位の日と推定された日であり、戦前の紀元節の復活である。また、靖国神社は、明治維新以後の国家のために進んで命を捨てたとされる人々を祀っている。こうした動きが、国家が過ちを犯していたとしても、それを問うことをしない歪んだ愛国心を育てることにつながるのである。本来、日本国憲法を尊重しなければならない政治家たち(日本国憲法99条)が、神権国家体制を目指すのであれば、思想・信教の自由は大いに脅かされる。従って、日本基督教団が「建国記念の日」と制定されたこの日を「信教の自由を守る日」と定めて様々な集会を開くことには大きな意味がある。かつて戦争協力をしてしまった宗教団体が、権力に利用されないように声を上げることは、二度と戦争を繰り返さないという社会的責任の果たし方の一つではないだろうか。
 主イエスは、ご自分を陥れようとする人々に「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられたが、少し考えれば、皇帝のもので神のものでないものは何一つない。すべての領域が神のものであるからこそ、政治が宗教を利用しようとすることにも、宗教が政治を利用しようとすることにも、異を唱えざるを得ない。このようにして、神のみが神とされる世界を私たちは待ち望むのである。

 2024年1月27日

第42総会期日本基督教団 社会委員長 柳谷知之

祈りと献金をもって支援を

 能登半島地震で被災なさった皆さまのお体が守られ、大切な存在とかけがえのないものを失った方々の悲しみが癒されますようお祈りいたします。
 教団は1日に救援対策委員会を設置し、2日に雲然俊美議長が緊急役員会を開きました。社会委員会が募金を開始し、教団ホームページに情報を掲載しています。海外諸教会からも祈りとメッセージと献金が届いています。今後も中部教区の要請に応えて支援していきます。
 被害状況は中部教区のホームページより一部を時系列で記します。

《1日〜2日》
 輪島教会は近隣の道路がひび割れ、会堂の一部が倒壊、牧師館の隣の家が倒壊し、壁に穴が空いています。
 富来伝道所は立っていられないほどの激しい揺れと地響きが起こり外の給湯器(エコキュート)が倒れ会堂内に物が散乱。道路も隆起し、地割れと土砂崩れが起きています。
 七尾教会は外壁の亀裂や内壁の剥がれ、落下、亀裂があり隣接する幼稚園も同様です。周辺の民家の皆さまの家の状態が悪く、避難所もいっぱいのため、七尾幼稚園が臨時の避難所となっています。実質的には教会の礼拝堂も避難所になっており約100人の方が宿泊しています。施設の特徴からご高齢の方、お身体のご不自由な方の避難所として割り当てられています。職員室、園長室、牧師館は中が大変なことになっていますが、避難所の機能を維持するため、そちらを優先しています。地域の方が中心になって避難所機能を維持してくださっています。

《3日》
 中部教区では、原則的に教区が定めた災害マニュアルに従って対応を進めています。被災地への連絡等は控えて、被災された方々への配慮をお願いしています。能登半島へ向かう道路は、所々で寸断され、金沢から輪島まで、通常2時間くらいの所、10時間かかったという情報があります。震度5強程度の余震も続いています。現時点で現地へ行くことは緊急車両や災害救助の妨げともなるので、お控えください。
 七尾、羽咋、恵泉のいずれの教会も電気は通っていますが断水が続いています。七尾、恵泉は敷地内に井戸水があり、それをトイレなどに使っているとのことです。

《7日(日)主日》
 「朝10時半から、避難所の廊下で輪島教会の新藤豪牧師他教会員2名、聖書教会の方1名あわせて4名で詩編46編2〜4節を読み共に祈りを合わせ、主の祈り、頌栄をアカペラで歌いました」。
 「七尾教会の主日礼拝出席者は7名。礼拝堂にて礼拝を守り、聖餐式も守ることが出来ました。感謝でした。その後開かれた長老会でも祈りを合わせました」。
 教団が行う人道的支援については様々な可能性を探りつつ検討中です。
 例えば北陸学院と共に子どもの支援プログラムを計画するなど、提案、意見が交わされています。具体的な企画と実行はまだ先となります。今しばらく教会再建と被災者の皆さまの心と体が守られますよう祈りと献金に力を注いでまいりましょう。

(網中彰子報)

近隣の教会や近所の方々と一緒に
台灣基督長老教會 《台湾》

 能登半島地震被災地の健康と安全、復旧を台湾の方々と祈りを合わせております。
 台北の私たちの教会にも富山や新潟、金沢ご出身の方も数名おられ、被災地の生の声も耳にしています。
 昨年のクリスマス活動の一つ。12月17日、台灣基督長老教會の近隣6教会連合でSOGOデパート前でクリスマス音楽会を開催しました。
 各教会から讃美やサックス、ウクレレ、リードオルガン等の演奏、小学校吹奏楽部演奏や讃美体操、等が披露されました。
 台湾では政府に申請し、許可、補助を受けて教会等で高齢者デイケア活動が行われています。ウクレレ教室もその一つで地域のデイケア参加者と教会聖歌隊合同での今回のクリスマス音楽会出演でした。
 讃美体操はある長老教会員の考案で、讃美歌に合わせてダンス体操の振付がされたもので、台灣讚美操協會も設立され、毎朝各地の公園等で、鮮やかなデザインの揃いのウェアを着て体操されています。DVDも10巻出ており、各教会でもクラブ活動があり、そのご出演でした。
 私たち国際日語教会からは教会合唱団と教会で練習されている地域の合唱団(多くは日本人女性)合同でクリスマス讃美歌メドレーを讃美し、この2つの合唱団指導・指揮者である声楽家足立育子さんのソプラノソロで出演しました。
 台北も当日は寒くて皆でカイロを体に張るような中、多くの方が聴きにいらしてくださいました。
 また同時に、この近隣の6つの台灣基督長老教會連合で、近所の高島屋とSOGOデパートでクリスマス・カード数百枚を2週間展示して頂きました。教会学校や教会内外関係者で描いたり装飾したお手製カード。
 昨年イースターには装飾した数百個のプラスチックの卵を同様に近隣の三越、SOGOデパートが展示くださいました。参加した子どもたちもご家族も大喜び。楽しくイースターの意味をお伝えしました。
 近隣教会や地域の方々と一緒にお祝いできた恵みに感謝。
 戦時下、被災地にこそインマヌエル。

(うすきみどり報)


 

「本物のクリスマスをあなたに」
富山市民クリスマス 《富山》

 「本物のクリスマスをあなたに」と、31回富山市民クリスマスが12月2日、富山国際会議場ホールで行われた。
 約200人の富山市民が、クリスマスメッセージと日本語メサイアの演奏に耳を傾けた。
  富山市内の教会はそれまでも教派を超えて協働の歩みをしてきたが、1991年、「平和を願い本物のクリスマスを富山市民に伝えること」を目的に始まった。富山市内の日本キリスト教団の3教会(富山鹿島町教会と富山新庄教会、富山二番町教会)、聖公会、バプテスト連盟、カトリック教会と富山YMCAが実行委員会を組織して、各教会が持ち回りで実行委員長と練習会場を提供している。
 当初は、教会員有志の聖歌隊による賛美と聖書朗読、県内の音楽家によるクリスマスソング、寸劇などを行ってきた。そのような中で、回を重ねるごとにもっとクリスマスの喜びを伝える内容にしたいとの声が強まっていく。そうして、メサイアを演奏すること、特に英語ではなく日本語で演奏することとなり、1997年の第7回市民クリスマスから、第1部を礼拝、第2部を日本語メサイア演奏という形が定着し今日に至っている。
 私は2021年に富山二番町教会に赴任し、コロナ禍で2年間の休会を経て3年ぶりに開催された富山市民クリスマスに2022年から実行委員、聖歌隊員として参加している。
 私自身は、学生時代にメサイアを歌ったことがあるが、それは、英語のメサイアで日本語のメサイアを歌う経験はなかった。もともと、英語の歌詞にメロディがつけられたことを考えると日本語の歌詞で歌うことは想像以上にハードルは高かった。
 しかし、歌詞もこれまでの木岡栄三郎訳をそのまま歌うのではなく、初めて聴く人にも歌詞が分かるように、オリジナルの歌詞となっている部分は多い。たとえば、「And the glory of the Lord」は木岡訳では「主エホバのみいつは」だが、富山オリジナルでは「見よ神の栄光は」にという具合に、格調の高さを求めるのではなく、キリストの生涯と福音を聴く人に伝えることを、何よりも優先したものとなっている。
  プロのソリストを立て、諸教会の教会員が聖歌隊に参加し、富山市内の年末の風物詩となっている。この富山市民クリスマスで、初めて礼拝とメサイアで福音に触れた人が、一人でも多く教会に連なることを願っている。

(勇 文人報)

一つの霊によって

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

エフェソの信徒への手紙4章1〜6節

秋田桜教会牧師
雲然俊美

課題に向き合いつつ

 主の年2024年の歩みの始まりと同時に能登半島地震が発生しました。今この時も、愛する者を失った悲しみの中にある方々に、主の慰めをお祈りいたします。心身に深い傷を負われた方々、今後の生活について何の計画も立てることができない悩みや苦しみの中にある方々に、主なる神さまのお守りとお導きを心よりお祈りいたします。
 また、輪島教会ほか、被災地域にある諸教会とそれらの教会に連なる信徒の方たちに主のお支えをお祈りいたします。
 世にある教会は、常に様々な課題に向き合っています。感染症に対する警戒はなお続いています。ウクライナでの戦争とガザ地域における激しい戦闘が続いており、私たちは主の平和の実現を祈り続けています。
 国内では、カルト宗教の問題が表面化する中で、「宗教」に対して社会の厳しい目が向けられています。そして全国の教会・伝道所においては、少子高齢化の中で、教会存立・存続の危機的状況に直面しております。
 このような課題に向き合いながら、私たちは主なる神さまを信頼し、主のお導きを祈ることへと導かれ、教会の存在意義を確認する日々を過ごしております。

 

一致を保つように

 そのような教会の存立・存続の危機は、教会外から突き付けられる様々な課題や批判によってもたらされることもありますが、教会内の問題によっても、教会は大きな困難を経験します。そのような困難に立ち向かうために必要なことは、教会における信仰の一致ということです。
 エフェソの信徒への手紙4章4節以下に、「一つ」との言葉が繰り返し語られています。これはキリストの体なる教会の一体性ということを教えています。それは、教会の組織的な一体性だけではなく、主イエス・キリストを救い主として信じる信仰において一つであることを示しています。
 特に、「霊による一致を保つように努めなさい」(3節)とあります。「一致を保つ」とあるように、私たちはすでに霊による一致を与えられているのだということです。つまり、「お互いによく話し合って、理解し合って一致しましょう」というのではなく、また、「教会がバラバラであっては証しにならないので、とにかく一致を目指しましょう」ということでもないのです。私たちは聖霊によって一つであって、一致はすでにあるのだということです。だからその一致を「保つように努めなさい」と言われているのです。
 その意味で、私たちはすでに与えられている一致にくり返し立ち帰ることが必要です。この人とはこれが違う、あの人とはそれが異なる…といった議論に留まっているのではなく、霊による一致に立ち帰って共に歩むということです。

 

源泉に立ち返る

 教会の信仰において大切なことは、信仰の源泉である主イエス・キリストに立ち帰ることです。私たち信仰者の将来は、現在の信仰の歩みの先にあるのではありません。そうではなく、信仰の源泉である主イエス・キリストに立ち帰ることによって、また、聖書のみ言葉に立ち帰ることによって新たに始まるのです。
 私たちの人生の歩みについては、「川の流れのように」と例えることができるかもしれません。穏やかな流れの時もあれば、急な流れの時もある。順調に流れる時もあれば、大きな岩に流れをはばまれる時もある。そして、流れはやがて大海に向かうと。
 しかし、私たちの信仰の歩みにおいてはそうではありません。私たちの信仰の歩みの将来は、流れの元(源泉)にあります。そこから、絶えず新鮮な流れが湧き出るのです。その源泉こそは、主イエス・キリストの恵みであり、キリストの福音です。
 教会は、一つの霊が「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2・3)ことによってこの世に誕生しました。教会は(キリストの体なる全体教会である日本基督教団も)、霊による一致のもと、霊の導き、交わりによって立ち、歩むのです。
 そして、源泉に立ち帰り、霊によって新たにされる時、「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」(ヨハネ7・38)のです。それがキリスト者の日々の歩みにおいて明らかにされる信仰の証しであり、伝道です。
「洗礼は一つ」(5節)とあります。すべての人が、主イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じ、主を救い主と告白することによって救われることの証しである洗礼へと招かれています。

 

招きにふさわしく

 エフェソの信徒への手紙4章1節からのみ言葉では、神さまからの「招きにふさわしく歩み」、「高ぶることなく」、「柔和で、寛容の心を持ち」、「愛をもって互いに忍耐し」、「平和のきずなで結ばれ」ることが勧められています。
 その一つひとつの言葉が言い表していることはよく理解できるものですが、それらを実践するということになると、大変困難なものであるということを思わされます。しかし、聖書のみ言葉は、このようにして教会は真実なキリストの体として立つのだということを示しています。
 私たちは、日本基督教団信仰告白によって、「教会は主キリストの体」であり、神さまの「恵みによって召されたる者の集ひ」と告白しております。この召しは、牧師職への召しということに限らず、すべてのキリスト者に対して神さまの召しがあるということを意味しています。
 教会は神さまの召しによる召命共同体であり、その召しに応答する召命応答共同体です。教会は、神さまに招かれた者たちが、主の召しに応えて、一つの霊によって歩む群れです。多くの困難があっても、遠い道のりであっても、自らの信仰を吟味しつつ、信仰の源泉に立ち帰って、「神から招かれた…その招きにふさわしく」歩み続けてまいりましょう。
 一年の歩みの上に主の祝福を祈ります。

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