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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4630号】荒野の声

2007年7月7日

▼旅行雑誌のコーナーで立ち止まった。「源泉掛け流しの温泉宿」、先ず、この辺りに目が行った。パラパラとめくり、頭の中で日程を勘定し、「日帰り温泉」の前に移る。ついに鞄から手帳を取り出す。「ウーン」と唸って、本屋の天井を見上げたら、鏡に別のコーナーが映っている。江戸の古地図。▼数年来のブームのことは聞いてはいたが、何とも多様な江戸の地図が並んでいるとは、驚いた。明治大正昭和の東京もある。比較的コンパクトな江戸地図と下町食べ歩きの類の本を買った。▼早稲田周辺も取り上げられている。見れば、教団から歩いて数分の所に、「堀部安兵衛記念碑」がある。七年通っていて初めて知った。教団から、高田馬場までの帰り道を三倍くらい遠回りして歩き、小旅行ならぬ豆旅行を終えた。なかなか味わいがある。▼牧師は出張が多くて羨ましいと妻が言う。金沢には六度行った。兼六園を見たのは五度目の時。日光は二度、東照宮も華厳の滝も未だ。▼佃島・月島にしよう。江戸の古地図と下町案内を携えて。教団御用達の印刷所から近い。築地も途中だ。

詩編62編1~9節、使徒言行録3章13~21節

神の前での沈黙 勇 文人

・ダビデの沈黙

語ることにおいて優れた才能を持っていながら、雄弁であることを捨てた男がいます。人並みはずれた才能を持ちながら、自らの無力さを思い知っていた男がいます。イスラエルの第二代目の王ダビデ。彼はたぐいまれな能力を持っていました。ダビデに出会ったサウルの従者がダビデのことをこう評しているほどです。「竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良い」。そんな秀でた才能を持ちながら、ダビデは自分には何の希望も見いだしません。ダビデはただ神だけに信頼を寄せ歌います。
「神にわたしの救いはある」「神こそわたしの救い」と、神だけに頼って歌います。他の何者でもなく、ただ神だけが、神こそがです。だからダビデは救いの源である神に向かうのです。
神に向かうときに、沈黙します。人を引き付ける言葉を持っているにもかかわらず、沈黙して神に向かいます。神に向かうときにどんな巧みな言葉もいらないというのです。
「沈黙は金、雄弁は銀」という諺があります。「沈黙の方が雄弁よりも説得力がある。口をきかぬが最上の分別」と辞書には説明されています。
この諺のように沈黙がかえって雄弁だということは、実に多く耳にすることですし、聖書でも語られています。ダビデも詩編19編で言葉を持たない天が、神の栄光を雄弁に語ると歌います。
ある説教者はダビデの62編と19編の二つの歌を取り上げて説きます。
「沈黙! 沈黙! われらは沈黙のキリスト者でありたい。闇夜の星は沈黙してまばたく。だがその輝きは千言万語にまさって、宇宙の宏大と自然の悠久とを雄弁に語っているではないか。多弁であって生活のないキリスト者は、まことに星の前に恥ずべきだ」
ダビデは、この62編で、神の御前で黙っていることでかえって雄弁になると、そんな分別を歌っているのでしょうか。

・雄弁な沈黙ではなく

神の前に立つときに、雄弁に物語るために沈黙する必要もないのです。すべてを神にゆだねきるのです。
この世がどんなに騒ぎ立っても神は神であり続けます。自分をめぐる状況がどんなに暗く険しいものでも、神は岩であり砦の塔であり続けて下さるのです。
ダビデは実に多くの敵に囲まれていました。イスラエルを脅かす外敵との戦い、そして、身内からもダビデに弓を引く者が現れる。文字通り内憂外患の日々を送り続けるのです。その敵との戦いに身も心もすり減らし、精根尽き果てていました。
しかしダビデはどんな苦難に襲われても、その苦難によって信仰を揺るがすような事態になっても、神の前に沈黙して立ち続けるのです。この忍耐はどこから来るのでしょうか。
今回の能登半島地震において、地震に遭った人々は当初から寡黙でした。「もっと語れ!」、「もっと早く情報を流せ!」などと言われながらも、意外なほどに寡黙を貫いています。それはなぜなのでしょうか。地域性なのでしょうか、それとも、想像を超えた地震の被害に圧倒されたからでしょうか。

・イスラエルの背信

「神こそわたしの救い」とダビデは言います。「神にわたしの救いはある」「わたしの救いは神にかかっている」繰り返し繰り返しダビデは言うのです。
救いは、自分自身の内にはどこにもないのです。どこからも見つけだすことは出来ません。したがって自らを救うことは出来ないのです。救いは地上のどこから来るのでも、人間の誰かが持ってくるものでもありません。救いはただ神から来る、神のみが救いだ、そう確信します、だから沈黙することができるのです。
世は移り、人は変わります。しかし、永遠に変わらないお方を信じるときにこそ、私たちは揺らぐことのない基礎を与えられます。だから沈黙できるのです。
「神にのみ、わたしは希望をおいている」とダビデは言います。神が救いだ、ということは、神は望みだ、ということです。
神はアブラハムやモーセとの契約を破棄されることはありません。この確信にダビデは立ちます。この希望にイスラエルの民は立つように勧めます。
しかし、イスラエルの民は立ち続けられませんでした。「神こそわたしの救い」であるにもかかわらず、神を拒みます。救い主イエス・キリストを拒み、十字架へと引き渡します。
「神こそわたしの救い」「神にわたしの救いがある」「わたしの救いは神にかかっている」はずなのに。神を信頼できずに神の前に立つことを拒みます。異邦人ピラトでさえも釈放しようとしていたのに、救い主を拒み、「バラバを救え」と叫びます。神の子イエス・キリストを十字架につけて殺すのです。

・神の名に立つ

しかし神は、イスラエルが拒んだ主イエスに栄光をお与えになり、よみがえらせるのです。それは救い主の受難が救いをもたらすためであったからです。
「だから」と使徒ペトロは訴えるのです。「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」。
あの美しの門に座り込んでいた生まれながら足が不自由だった男のように立ち帰れと言うのです。主の御名を信じる信仰によって癒されたように、あなたたちイスラエルも主の御名の前に立ち帰れと勧めます。「神は我が救い」という主の御名に立てというのです。主の御名に立つことは、「神こそ我が救い」だと言うことです。
それは、「主のもとから慰めの時が訪れ」るからです。ここで「慰め」と訳されている言葉は、聖書のもとの言葉では「息をつくこと」「息つくひま」とも訳せる言葉です。
主の御前に立つときに息がつけるのです。地上での戦いや苦難といったあらゆる煩いから解放される真実の平安の時です。主の御前から真実の休息が与えられて息をつくのです。そして主の御前で息をつきながら、主が救いを完成される時を待つのです。万物新しくなるその時を待つのです。
神の御前に立つときに、私たちは平安でいられます。慰めに満たされます。その時に、私たちは自らを装う必要も、ふさわしくない自分を弁解する言葉を探し出す必要もありません。 これまで私たちを苦しめてきた罪に、もがきあえぐ必要はないのです。沈黙してただ神に向かうのです。神の御前に立つ私たちは全く揺らぐことはありません。神だけが頼みであり、神のもとに救いがあるからです。だから、私たちは神の御前で、心のすべてを神に注ぎだせばよいのです。
(若草教会牧師)

2007年6月23日

台湾基督長老教会の第52回の総会が四月十日から台北の馬偕記念病院で開催され出席した。
国民党と民進党が中国との対応をめぐって緊張関係にある中での総統選挙実施が近づく中、長老教会もこの関連を直視していることが呂秀蓮副総統の来訪と演説でも伝わってきた。
また世界状況の中での孤立化を脱すべくシンガポール及びマレーシアの長老教会との宣教協力案が可決されたことも台湾基督長老教会の方向性が見えていた。
四役の改選、予算等の承認などのほか機構改正も進められ前進する姿が着実と見受けた。
教団からの議長挨拶は東京台湾長老教会の李孟哲牧師の通訳によってなされたが熱烈なる拍手によって歓送迎され教団への信頼と期待の高さ、深さを再認識させられる時でもあった。
今回の総会主題は「建造家庭祭壇、分亨豊盛生命」であったがこれは今年の教会全体のテーマをそのまま掲げてのことである。
家庭伝道、信仰の継承によって主への祭壇を建造していく、そしてそのことが豊かな生命を分かち合うことに通じていくとの自覚を徹底する、ここから教会形成、宣教の使命が果たされていくということは我々にとっても大切な主題であることは言うまでもない。
地に足のついた歩みをなし、主の伝道命令に応えていくために次世代対応型としての家庭に祭壇を建造することは古くて新しい現実的な主題、課題、命題である。
(教団議長 山北 宣久)

今、ここで踏んばらないと

「今、わたしたちの世代がここで踏んばらないと。十年後を見据えて。伝道のために」。教会の伝道状況に危機感を覚えながら、なお、濱田さんは喜びをもって語る。伝道するのは自分たちの受けた恵みへの当然の応答である、と考えている。
ここ数年の間に、教会では若い世代も含め十名近くの受洗者が続いている。濱田さんの家族にも受洗者が与えられ、子どもたちへの信仰継承も成った。それだけではなく子どもたちの夫や妻も洗礼に導かれた。親である自分たち夫婦が努力したことではなく全く恵みとして与えられたこと、と語る。このような恵みを無償で与えられたからこそ、なおのこと伝道への責任と、自ら負うべき労苦に気付かされた、と言う。
教会内に久しく無かった伝道委員会が昨年立上げられ委員長に就任した。確かに、少子化、高齢化、過疎化、地域の習俗、地元に若者が働く場は少なく現状は厳しい。しかし、今ここにいる人たちに、とにかく教会に来てもらわないとならない。教会は最上、最良のお方を伝えられるのだから。教会は、今年一二〇周年を迎えた。記念礼拝、教会学校OB・OG集会、特別伝道礼拝など、年間を通じて計画中。今年だけの単発のイベントに終わらずに、という思いも冒頭の言葉に込められている。
東京での教員生活に終止符を打って、秋田の地に移り住んで木工房を開き二〇年以上が経った。父親が指物師としての技術を持った人だった。高度成長期、その後のバブルと大量消費の生活の中で、何百年もかかって育った木から幾世代にも亘り使える品々を、と考えてきた。最後の一匹のためにと工房名を決めた。かつて地域を支えてきた職人が数えるほどとなった今、このことでも「踏んばらないと」である。息子たちも仕事を継ごうとしている。鳥海山の山懐に抱かれた工房で木工(たくみ)として木を削りつつ、羽後の伝道圏に幻を見ている。

日本キリスト教協議会(NCC)では中国委員会を中心に、第3回中国基督教両会訪日団、TSPM議長の Ji  Jianhong(季剑虹)議長を団長として総計十名を、二〇〇七年四月十九日(木)から二六日(木)の八日間にわたり、東京地域と関西地域にお迎えし、様々な催しを通して日本のキリスト教界との交流の時を持った。今回の訪日団は一九八四年と一九九九年の訪日団についで八年ぶりとなる。また二〇〇四年の第三回NCC訪中団の答礼としては三年目にあたった。
今回の中国基督教両会訪日団の特徴は、CCC議長ではなく、TSPM議長が団長となり、そのメンバーも四〇歳台の方々が殆どで中国各地からのCCC及びTSPMの代表者であった。団長の Ji 氏は今年で引退と聞いているので、指導者世代交代の引継ぎになっていたと思う。
NCCと中国基督教両会とは二四年間に渡り信頼関係を築いて来たので、何よりもこの訪問は唯一の両国キリスト教関係者交流のパイプとしての意義が大きい。訪問先は、地方教会礼拝を始め、キリスト教主義幼稚園、学校、病院、施設、団体など、二〇箇所近く及んだ。
短い滞在期間の中で、お互いに顔が見えること、そして肌で感じあい、中国と日本は「気持ちが通じ合える」親密さを感じることができた。人事交流促進を提案したところ、先方からも、お互いに文章で取り決めて進めましょうという返事を頂いた。また北京オリンピック開催時には中英の聖書を頒布することを明言していたので、将来、中国基督教両会の働きが更に促進されることを期待したい。
NCCとしては輿石議長、山本総幹事、真野職員と通訳の薛(シュエ)牧師が受け入れ責任の窓口になり、その他、多くの方々の協力を得て、このように成功裡に終えたことを心から感謝したい。詳細は何らかの形で記録として印刷物にしたいと願っている。
*中国基督教協会(CCC)+中国三自愛国運動委員会(TSPM)
(渡部信報/日本キリスト教協議会 中国委員会委員長)

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