第35総会期第五回スイス協約委員会と韓国協約委員会合同員会が、両委員会全員出席のもと、十月二日(木)午後十二時から十六時、教団会議室で行われた。 最初に第36回教団総会に出席予定の来賓のなかで特に現在準備をすすめているスイス・韓国・日本三国間協議会に関係のある方々が居られ、総会期間中に懇談の機 会を設けて同協議会への積極的参加を要望することが確認された。
さらに同三国間協議会について協議した結果、開催日を二〇一〇年十一月十一日(木)から十五日(月)とし、うち三日間を会議、他を礼拝出席と現地研修等とする事、テーマは「平和」をめぐる問題とし、開催地は首都圏および近郊、現地研修場所の候補として靖国および横須賀などとすることが決定された。同協議会開催は第 37総会期となる予定であるが、次期・次々期委員会へ円滑な申し送りを行い、充実した協議会を開催すべく今後も努めることが確認された。
引き続き、第五回韓国協約委員会が行われた。今回の教団総会にしばらく交流が途絶えていた基督教大韓監理会の代表が来られる事を感謝し、三国間協議会に向けて今後も積極的に交流を深める様働きかけること、次期委員に今回同様、韓国に関わりの深いメンバーが入ることを特に申し送り事項の中で要望して行くことなどが協 議、決定された。
(吉岡康子報)
九月二九日~三〇日、教団会議室において、第35総会期第七回教師委員会が開かれた。
まず、「隠退教師」の理解について雲然俊美委員が発題した。そして、隠退教師は教師ではないとの理解も可能となるという現状の問題点が指摘された。当委員会としては、隠退教師は「教師の職務を退職した者」という理解に立ち、隠退教師の身分について信仰職制委員会に諮問することとした。
次に、田中かおる委員より「女性教職に関する事項」の発題があった。その中で、教師としての基本は男女とも同じであること、そして女性教職としての困難と恵みなどが語られ、また次期委員会への提案がなされ、今後も課題や情報の把握に努めることが確認された。
中部教区常置委員会から出された「黛八郎教師の戒規に関する提訴」の件では、多くの時間が割かれた。まず松井睦委員長より経過報告がなされ、続いて調査委員会の岩隆委員長及び二名の調査委員より経過報告と所感が述べられた。
その後、当該教師に対してどのような戒規を適用するかの協議に入った。当該教師の教団教師としてあるまじき行為について、さらに教師としての倫理、被害者の状況、そして社会に与えた影響、更にはキリスト教会内に与えた深刻な影響などを考えた厳しい意見が相次いだ。一方で、戒規というものが、本来、当該教師を悔い改 めへと導くための手段である点も確認された。最終的に、「免職」とすることが決まった。当該教師にその旨を報告し「教団新報」に「戒規執行の公告」を掲載することにした。
最後に、教団常議員会からの「北村慈郎教師戒規処分申立書」について扱った。必要書類がそろっていることが確認され、協議の上、全会一致で提訴を受理した。調査委員が選出され、次期教師委員会に申し送ることが確認された。
(小宮山剛報)
▼『シャーロック・ホームズのドキュメント…創元推理文庫』に感銘を受けた。以前から模作、パロディ、またホームズやワトソンを歴史上実在する人物のように描いたものも読んでいたが、既にジャンル化していることを教えられた。▼感銘と言ったのは、これらの著者たちが、ドイルよりもホ ームズに通じ、ドイルよりもホームズとワトソンを愛していることだ。まあ、そうでなければバスティーシュ(この言葉も初めて知った)を著すことはできない。▼ホームズに匹敵するのはシェークスピアか。数々の贋作…模作ではなく…があり、シェークスピアが主人公の物語がある。『慈悲の心』は信仰・教会のこととも重 なりお奨めだ。▼聖書・神学の世界でも同様らしい。摸作あり贋作あり、しかし残念ながら、そこには、例えばパウロに対する愛を感じ取ることが出来ない。イエス様の場合さえも。▼ドイルの原作は正典と言うそうだ。
「教団新報」次号四六六五・六六号を合併号として、1月17日に発行します。なお教団三局は12月24日、25日、クリスマス休暇、29日から1月2日は休業します。1月5日より通常業務となります。
総幹事 内藤留幸
主イエスに出会う旅
山田称子
擦れ違いの旅
一年間の教会の働きの中で、一番最初にクリスマスの準備をはじめるのは、教会学校(日曜学校)の教師(リーダー)の方々であると思います。どのように今年のクリスマスを子どもたちと一緒に祝い・喜びの時とするか。迎える準備に頭を悩まします。その苦労に一層追い打ちをかけるのが、なかなか続けて出席出来ない子ど もと、元気な子の自由奔放過ぎてまとまらない状態。昔も今も変わらず、自分の好き勝手をして本番にのぞみ、教師をハラハラさせてくれます。
そんな中の一人の子どもとして、私も教会学校の毎年のクリスマスを楽しんで迎えていました。クリスマスのプレゼントをもらうことだけを楽しみにしていた子どもであったと言えます。クリスマスの主役は自分であるかのごとく思っていた私に、二つのショックなことがありました。
それは親と共に行った児童養護施設ホザナ園でのクリスマスの出来事でした。(この児童養護施設は、現在も私が牧会に携わっています浦和別所教会が生み出した施設で、社会福祉法人児童養護施設として五〇人弱の子どもたちが職員と共に生活をしています)
一つは、ホザナ園でのクリスマスは自分が主役ではなかったことでした。常に自分にもプレゼントがあるものと思いこんでいた私にとって、何もないということがショックだったのです。(きっと、お菓子などいただいたと思いますが、園の子どもたちと同じようでなかったことが、ショックだったのだと思います)
ホザナ園でのクリスマス祝会の中で、職員の方々による出し物がありました。その時の出し物の内容に驚いたのが二つ目の出来事でした。それは、「もう一人の博士」という題の人形劇でした。ご存じの方も多いと思いますが、この話をはじめて聞いた時でありましたので、話の中に吸い込まれるように入っていました。博士は三 人しかいないと思っていましたので、「もう一人いた」とは子ども心に驚いていました。この「もう一人の博士」のアルタバンのその生涯に、またまた、感動していました。
アルタバンは、他の三人の博士たちと夜空に輝いた不思議な星を求めて旅をする計画をたてていました。しかし、約束の日に約束の場所に行くことが出来ず、置いてきぼりになり、やむなく一人で旅をすることになったのです。その旅は、主イエスと出会えず、いつも擦れ違いの旅でありました。贈り物として持参した大事な宝石 を持って、主イエスの後を追いかけて行きます。何年も何年も擦れ違いの旅でした。その途中で、困っている人に、悲しんでいる人に、貧しく食を得ることの出来ない人に出会い、大切な宝石を分け与えていくのです。そして、とうとう何もなくなり自分も年老いて死を目の前にした時、十字架上の主イエスと出会うことが出来まし た。主イエスは、アルタバンのなして来た良き業を知っておられ「困っている人、病んでいる人になしたことは、私にしたことなのだ」と言われました。主からのお言葉をいただいて、何一つ無駄ではなく、自分の歩んだ旅は意味があったことを知り、感謝のうちにアルタバンも死んでいくのです。
この話は、この時以来忘れられない心に残るお話となりました。クリスマス=(イコール)プレゼントをもらう時としか考えていなかった心に、大きな衝撃となりました。
主に渡しきる心
クリスマスのメッセージは、「すべての民をそのもろもろの罪から救う者」として主なる神より人間に贈られて来た御子イエスを、最高のプレゼントとしていただくことです。しかし、現状は子どもばかりではなく大人も人々の思いは、この地上での現実的・物質的のみに目を奪われています。思いも心も真理をみつけられず、 本当に生きる意味と希望とを見出せず、直ぐ手に入りそうなものに踊らされている現実が、見えないでいます。また私たちの心が、主なる神より神の一人子を、最高のプレゼントとしていただくというこの時点にのみとどまっているならば、子どもが「クリスマスはサンタクロースがプレゼントを持って来てくれる日」と思っている ことと同じではないでしょうか。
私たち人間は、神の御愛のしるしの御子イエス・キリストを心に受け入れ、その御愛に少しでも感謝を持って答えることが、クリスマスのメッセージへの応答です。
如何にこの愛に答えることが出来るか。神の一人子の身代わりの死の代価に答え、出来ることは、私たちには何もありません。アルタバンは、ただ不思議な星に導かれ救い主としてお生まれになったお方に心からの贈り物をささげることが、生きる望みとなり生涯を歩みました。「何かした」とも、「何か出来る」とも考えていな かったことでしょう。目の前に起きている困難な状況の人に、出来ることをしたということだけです。私たちは、この「自分が出来ることをする」という課題に真っ正面から向き合っていない姿があるかと思わされます。神よりの問いかけに応答していたとしても、主の問いかけを聞く前に答えを自分で決めているのです。「それ以 上は無理です」と。その後には、問いかけがなかったことにしてしまいます。
私たちのために神が、主イエスが、なして下さった贈り物は中途半端のものではありません。身代わりの「死」に、「半分死にましょう」などありません。すべてを捧げ尽くして下さったゆえに、新しい命を与えられキリストと共に生きるものとされました。この主に私たちが捧げることが出来るものはなにか。神はみ言葉を通して語っておられます。主が願っておられる出来る限りのささげものは、私たちのすべての主導権を主に渡しきる心です。私の人生のすべてが主のものとされる時、キリストのご愛の内を生きるゆえにそこには、すべてのことに対して主のみ心に反することに捕らわれることなく、主の平安を頂きつつ自由に生きる喜びが得られます。クリスマスのメッセージに応答いたしましょう。
『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25章40節)
(浦和別所教会牧師)
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