台湾基督長老教会は各界の支援に感謝
2024年4月3日午前7時58分、花蓮沖合でマグニチュード7.2の強い地震が発生しました。中央災害応急センターの報告によると、花蓮403地震は25年前の921大地震以来、台湾で発生した最も深刻な地震です。今回の地震により、18名が命を落とし、1155名が負傷、3名が行方不明となっています。さらに、花蓮市内の多くの住宅や、台湾基督長老教会の礼拝堂も損壊を受けました。加えて、長老教会の重要な原住民神学機関である玉山神学学院も大きな影響を受けました。
地震発生後、台湾基督長老教会の陳信良総幹事は、地震の影響を受けた地区の教会に対し、できるだけ早く救援センターを開設するよう指示しました。また、総会の教社(教会社会)委員会の林偉聯幹事には、教会内での死傷者の数や、家屋の被害状況を把握するように命じました。これまでの整理によると、今回の地震で3名の教会信徒が命を落とし、19世帯の信徒の家屋が深刻に損壊し、住むことができない状態になっています。台湾基督長老教会のFuyan Suda総会議長と陳信良総幹事は、教会の信徒が地震で命を落としたことを聞き、花蓮の災害地域に赴き、遺族への慰問と関心を示し、共に泣き、また負傷者の早期回復と災民の生活が一日でも早く復旧することを祈りました。
当教会で最も深刻な被害を受けた玉山神学学院のWalis Ukan院長と学院の教職員が被害状況を確認した結果、損壊した場所は、学院内の夫婦用宿舎、男子寮の外の道路、教室や寮内の内部の損壊がありました。さらに、教育棟の屋上の梁に亀裂が入り、鉄製のシャッターが壊れ、教育棟内のティールーム、トイレ、食堂、女子寮の壁にも亀裂が入っていることが確認されました。また、図書館の壁にも亀裂が見られました。
《平安音楽会が花蓮の災民に平安をもたらす》
台湾基督長老教会は、403地震で被災した人々の心身を癒すため、6月15日に花蓮自由広場で「花蓮平安音楽会」を開催しました。林偉聯幹事は、「今回の音楽会は、被災者に平安のメッセージを届けることを目的としています。大災害を経験したとしても、被災者は決して孤独ではなく、温かい手を差し伸べる人々がいることを伝えたかったのです」と語りました。
この音楽会には、ウクライナ台湾チーム、花蓮港教会、鳳林教会、大安教会、Tafalong教会などが出演し、約5000名の被災者を伴って、音楽とダンスを通して心を励まし、地震によって引き起こされた痛みを乗り越えるための勇気を与えることを目的としました。
林偉聯幹事はさらに、今回の地震で400万台湾ドル以上の寄付を受け取ったことを伝えました。第一段階では、亡くなった方々の遺族や負傷者、家屋や教会の損傷に対して慰問金が支給され、その中で100万台湾ドル以上が台湾社会各界からの寄付によるものです。この一部の寄付金は、この平安音楽会の開催に充てられました。また、5000枚の100元分の遊園券を被災者に配布し、花蓮の商店に商品を販売してもらうことで、地域経済の活性化を図り、花蓮への観光客の誘致にもつなげています。これは聖書のパンの奇跡を思わせることでした。
《エキュメニカルな教会の関心と支援》
台湾が大地震の災害に見舞われた際、台湾基督長老教会は世界中の普遍的な教会から多くの関心と慰問の言葉を受け取りました。これらの教会は、台湾の教会と共にこの痛みの時期を乗り越えることを願っていました。「これらの慰めと支援によって、台湾が孤立していないことを深く感じました。台湾と台湾基督長老教会がこの困難な時期を共に歩むために支えてくださったすべての方々に心から感謝します」と、陳信良総幹事は述べました。
さらに、今年の4月に台湾基督長老教会が「第69回総会通常議会」を開催した際、日本基督教団の雲然俊美議長が招かれ、「今回の台湾東部沖を震源とする地震で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。また、すべてのキリスト教会において、主なる神の支えと導きをお祈り申し上げます」と、支援と励ましの言葉を述べました。また、「花蓮地震が発生した際には、日本の沖縄地域でも揺れを感じました。台湾と沖縄の間には海がありますが、海底でつながっているのです」と語りました。台湾は長年地震の影響を受けている国であり、今年初めに日本で能登半島地震が発生し、多くの犠牲者と家屋の損壊がありました。台湾基督長老教会も、日本の教会が地震災害に直面している困難を深く理解し、心からの支援と慰問を表明しました。それを受けて、雲然議長は「私たちは、主なる神が創造された地球上で共に存在する運命共同体です」と述べました。
《総幹事の感謝の言葉》
陳信良総幹事は、世界中の教会が手を差し伸べてくれたことを見て、「困難な時にこそ真の友情が見える」と語り、台湾が災害に見舞われた際に、世界中の教会が見捨てることなく、心を込めて関心を示し、支援の手を差し伸べてくれたことに感謝の意を表しました。「台湾は災難の中にありますが、神の愛が私たちを強く結びつけ、台湾の困難を自分のものとして共に担ってくださったことに、心から感謝しています。教会の支援によって、神の恵みが現れています」と述べました。
(蔣記剛報/台湾基督長老教会エキュメニカル専任)
あり得ないはなし
ルカによる福音書2章18節
「キリスト」とは何ものか
いまさらながらでありますが、「クリスマス」という言葉は、「クリス」と「マス」がくっついてできた言葉。「クリス」は「キリスト」のこと。「マス」はカトリック教会の礼拝をミサというのにつながり、私たちの言葉で言えば「礼拝」となるでしょう。つまり、「キリストを礼拝する」というのが、クリスマスという言葉の意味と言えるでしょう。古めかしい言い方ですと、東方の博士たちが長い旅をして、新しい王としてのキリストを拝み(礼拝)に来たのも、まさにクリスマスだと言えるでしょう。私たちもその言葉のとおりでありたいものです。
ただ、歴史を振り返ってみますと「キリスト」の中身がいくらでも入れ替えられてしまうことが起こっているように思えます。人は実に都合よく「キリスト」の中身をすり替えるものではないでしょうか。
「キリスト」とは何ものか。飼い葉桶の中の赤子は、キリストとしてどのように歩んでいくのか。キリストとは、「救い主」という意味であるのは承知されていることでしょうが、いったい何から、誰を、どのように救ってくれるのか。そもそも「救い」とは何なのか。そんな当たり前に分かっているだろうと思っていることが、案外的外れになってしまっていないか、よくよく考えてみる時としてクリスマスの時が与えられているように思います。
「つまずき」に満ちた生涯
主イエスのご生涯を聖書に見ていきますと、クリスマスという誕生の出来事ばかりでなく、不思議なことばかりです。およそ30才の頃、公の活動を始められた(ルカ3・23)とあります。それまではナザレの村で大工をしておられたよう。ところが人から見れば「突然」、おそらくご本人にすれば「時満ちて」公の活動を始められます。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って伝道をされ、弟子たちを召して町々を巡り、そしてやはり時が来たのを知ってエルサレムへと向かわれ、十字架に架けられていくわけです。大勢の人たちが全国から癒してもらおうと、また話を聞こうと集まったとあります。政治的な背景が何も見えないこの「ナザレのイエス」と言われる人物が、当時の権力者たちにとってどうしても排除しなければならない存在になっていったのは、何故なのでしょうか。考えてみますと、人は集まっているが何の統率もできておらず、政治的な脅威になるとはとても思えません。それなのに、権力者たちは民衆を煽り立てて「十字架につけろ!」と叫ばせます。遂に「キリスト」は十字架に架けられていきます。主は何の抵抗もせず、不法な裁判にもかかわらず、その裁きを黙って受けていかれます。
クリスマスの出来事の「不思議さ」や「あり得なさ」は、クリスマスだけのことではなく、主イエス・キリストのご生涯、主イエス・キリストの存在そのものが、「不思議」と言ってもいいかもしれません。いや、「不思議」というレベルをはるかに越えて、「つまずき」とでも言うべきものではないでしょうか。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一の1章18〜25節で「十字架につけられたキリスト」が「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」であると言っています。神さまが与えようとしてくださる「救い」を十字架に見るのは、決して当たり前なわけでも、すんなり受け入れられるものでもないということでしょう。「そんなバカな話があるわけがない」、「訳わかんない!あり得ない!」と言われて、スルーされるのが落ちです。
あり得ない恵みの中で生かされる幸い
主イエス・キリストの救いをいただくには、十字架という「つまずき」にきっちりと向き合わなければならないのではないでしょうか。それは自分に都合の良いキリストを理屈をこねて作り上げるのではなく、十字架の前に立った時に、まっ先に自分が鏡に映し出されるように見えてきてしまうこととなるでしょう。そこに映る自分の醜さ、汚れ果て、血にそまった手をしているのに、向き合わなければならなくなります。そこから逃げ出したくなるのを、不思議にもとどめられて、なお十字架を仰ぎ、十字架の言葉に聞く時、そこに復活の主イエスと相対していることに目を開かれるのです。最後の晩餐で、主が「これはあなたがたのためのわたしの体」と言ってパンを裂いて渡されたのと同じように、この十字架はあなたのためのものだと、その御手が差し伸べられるのです。
文豪ドストエフスキーは『罪と罰』というタイトルの小説を書きましたが、この作品は、罪を犯してしまった者が、どんなに自分で償いをして罪を消そうとしても消しきれず、本当に罪をなくすことができるのは、キリストの十字架による命の代償(贖罪)だというところに行き着かせるものだと思います。罪を自覚するのがきっと第一歩で、それも自力ではできません。不思議な導きの中で、鏡の前に立たせられて八方塞がりになってしまいます。しかしまさにそこに復活の主が相対して下さり、その釘跡のついた手が差し伸べられてくるのを見出すのです。それが愛の御手であることに目を開かれていく時、深い悲しみをもって悔い改めて、その御手に自分のすべてをゆだねていくことになるでしょう。それを生ける主こそが、しっかと受け止めてくださるのです。
不思議という言い方を重ねてきましたが、そこには深い神さまの憐れみがあるのだと言ってよいと思います。あり得ないのは神さまの救いの御業の方ではなく、救われるはずのないこの自分が赦され救われたことです。生ける復活の主イエスとの対話の中に、尽きることのない赦しをいただきつつ、天の御国を目指して生きていけるということです。クリスマス、その不思議さ、あり得なさは、すべて十字架と復活を見ろと指さしているものだと聖書全体から聞きます。飼い葉桶に眠る小さな赤子の主の手が、やがて十字架に釘打たれるのを私たちは知っています。飼い葉桶もあり得ないが、釘跡のついた手がこの自分に差し出されてくるのもあり得ないのではないでしょうか。あり得ない恵みの中、生かされている幸いを、「クリスマス」という言葉に立ち帰ってかみしめたく願います。
(小金井緑町教会牧師)
「出来事が問う、その問いを石畳として」
~地域の再生なくして、教会の復興はありえない~
西澤他喜衛さん
(震災の年の教区定期総会で副議長、後に議長。兵庫教区震災対策特設委員会にて長く責任者をし、長田活動センターの初代責任者。現在、須磨教会と曽根教会の牧師。)
阪神・淡路大震災から30年の時を迎えます。これまでわたしたちが被災者・ご遺族の方々と共にあろうと祈り願い、行なえた、あるいは行なえなかった数々のことを想い起こします。また、能登半島の 地震や津波・豪雨の災害に至るまで、この間その都度問われていることを、次の世代に引き継いでいくのも、わたしたちが今後向き合い続けなければならないことと考えます。その思いを持って、今回も また、記念の時を迎えたいと願います。
日時:2025年1月17日(金)午後6時
会場:日本基督教団 神戸教会 および オンライン・ライブ配信
神戸教会…神戸市中央区花隈町9-16
※会場に駐車場はありません。公共の交通機関をご利用ください。
主催:日本基督教団 兵庫教区 (電話 078-856-4127)
オンライン・ライブ映像配信
○礼拝ライブ配信の URL 【https://www.youtube.com/live/7JuVRB1IDP8】
○礼拝の式次第は兵庫教区のホームページで、礼拝の数日前からダウンロードしていただけます。「日本基督教団兵庫教区事務所」で検索。
礼拝の動画はそのままアーカイブしますので、この時間にご都合の合わない方も、 あとからご視聴いただけます。
追悼礼拝2025ポスター(PDF)
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