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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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マタイによる福音書27・32~56

2013年3月24日

27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、
27:36 そこに座って見張りをしていた。
27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
27:38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
27:45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
27:47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
27:48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
27:50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
27:51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。
27:54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
27:55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。
27:56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

2013年3月23日

総幹事就任以来、兼任となった渋谷の東京山手教会の聖書集会に仕事の合間を縫って通っている。
わたしは、牧師となった若い日から教会の集会を休んだことがない。ただ、60歳を過ぎたある年の8月、前立腺ガンの全摘手術で3週間止むなく入院したが、もともと8月は週日の諸集会を休会していたので、その間の主日礼拝説教2回は信徒が代行した。
何を言いたいかと言うと、10月の教団総会で現任牧師の総幹事選任は、前任の竹前昇牧師の時もそうだったが、3月末の牧師退任まで相当負担であることだ。    「集会は休まない」と言ったが、これまで、教会では主日と、説教をつくり面会もする土曜日以外、次週の週報原稿書きは月曜日朝、火・金曜日朝と水・木曜日夜の聖書集会を行なって来た。要するに牧師としてのわたしは、牧師として教会を休むことはいけないことのように思う古い時代のタイプの部類なのかも知れぬ。      都会の事情もあるが、信徒の牧会は入院した人以外訪問しない。特段の相談でもなければ、集会で聖書を通して行なった。牧会は、先ず聖書にたどり着かせ、聖書で勝負することで、それが礼拝に結び付くことを願ってのことだった。
伝道師時代の数年は別として、それで東京・武蔵野における開拓伝道27年と現任教会18年を貫いた。だからわたしは、教区や教団の仕事とは言え、必ずその日の内に教会に帰った。帰れたので集会が出来たのである。
(教団総幹事 長崎哲夫)

第38総会期第1回目の常議員会において、前事務長である森啓一兄が委員長に任ぜられたため、森兄から引き継ぐ形で、「隠退教師を支える運動」推進委員会事務局長に任ぜられた。他に東京教区東日本大震災救援募金委員に名を連ねている。委員会の中でこの人事案が示された当初は躊躇する思いしかなかったが、世代交代という一言は重かった。祈りつつ、神の御心と信じ、受ける決断をした。
委員として初めてこの運動に関わったのは2007年。千葉支区の推進委員という立場であった。その後、東京教区の推進委員となり、今日に至っている。これまで推進委員としてこの運動をアピールすることが主な務めであったが、、今回実際の事務業務に初めて関わることとなり、その仕事量の多さに驚いている。
務めの内容に変化はあるが、運動に対する思いは変わることはない。これまでも、そしてこれからも大切にしたい思い、それは第一に、この運動の原点は、北海教区の一教会にあるということであり、それは同時に、この運動が完全な信徒運動であることを意味しているということである。教団の中で規模の大きい信徒運動の一つでもある。
第二に、この運動は、単に隠退後の教職を支えるだけではなく、現役の教職が、隠退後の生活にできる限り不安を覚えることなく伝道できるようにという視点を強く持った、伝道する教団の現在の伝道を支える運動であるということである。
2012年度からは10年ぶりに沖縄教区から推進委員が選出され、時に一致に欠ける教団の中で、全教団的な運動としてこの運動が展開されていることは喜びであり、その意義の大きさを感じている。
東日本大震災で被災した教会からも献金が献げられている。献金を献げている信徒の信仰に感謝の思いを忘れずに、全教会、全信徒の運動としての展開を目指したい。

船橋教会員。「隠退教師を支える運動」推進委員会事務局長。

教区が主体となり、教区ならではの開拓伝道

教会を生み出す教区
西東京教区は現在JR立川駅周辺にて「教区が主体となって」「教区ならでは」の開拓伝道を試みています。
1999年に設立された西東京教区は、設立の理念として「教会を生み出す」ことを掲げました。しかし、教区になって10年、教会を生み出せないで来ました。2008年「めじろ台教会」が設立されましたが、この教会は西支区時代の親教会群制度に始まった「八王子めじろ台伝道所」がようやく実った結果でした。新規の開設としては、「阿佐ヶ谷恵み伝道所」一つでした。そこで、教区伝道部(当時は大村栄現議長が委員長)を中心として、教区が主体となって教会を生み出す方向が、2005年辺りから模索されました。
2005年から2007年にかけて、毎年秋に開催される「教区伝道協議会」(富士箱根ランドスコーレプラザ)では、「教区開拓伝道のビジョン」という主題を掲げて、「教区が主体となって」「教区ならでは」の開拓伝道の推進を図りました。
立川伝道開始
2007年の定期教区総会において、「教区開拓伝道準備委員会」が設置されて、開拓伝道の準備が本格的に始まりました。この準備委員会は、詳細なフィールドワークを繰り返し、立川駅周辺にて開拓伝道を行うことが望ましいとの“結論に達した”との報告を行いました。
この報告を受けて、2008年の定期教区総会では、「教区開拓伝道実行委員会」の設置と立川駅南口近く「レンタルスペース99+立川」を開拓伝道の最初の拠点とする決議がされました。2008年9月7日主日の夕方6時半より、夕礼拝が開始されました。以後、今日まで2百回以上休むことなく続けられています。
2009年の定期教区総会では、「教区開拓伝道実行委員会」の向こう5年間(2010年度~2014年度)の設置が決議され、さらに本格的な開拓伝道が開始されました。2011年2月1日に現在の地「立川伝道センター」(JR立川駅北口徒歩10分、春城ビル2F)に拠点を移しました。
ここは、南口では(日曜夕方の時間借りで)行えなかった「週日の集会」を開始することが出来ました。まず「教区開拓伝道をおぼえて祈る会」(毎月第4月曜日午後)を始めました。まだ人数は少ないですが、「伝道は祈りに始まって祈りに終わる」という思いをもって実行委員を中心に続けています。
2012年7月からは毎週水曜日午後1時~6時(第1水曜日は午後8時まで)「牧師面会日」を設けて、教職の実行委員4名と他の委員(教区伝道部)1名が交替で、駐在するようになりました。
伝道所開設
以上の経過に鑑みて、教区の常置委員会は伝道所を立ち上げる時期に至ったと判断して、2012年の定期教区総会に「『立川開拓伝道』を推進する件」を提案したところほぼ満場一致で可決されました。この段階では、「伝道所開設を目指して行く」というものでしたが、同年内に、準備と機運は高まり、11月25日、アドベント前の主日の午後、吉祥寺教会にて開かれた教区臨時総会にて、「立川からしだね伝道所開設」の議案が、これもまた満場一致で承認されました。
2013年1月20日、石橋秀雄教団議長、伊藤瑞男教団副議長、長崎哲夫教団総幹事を迎えて総勢64名が見守る中、大村栄教区議長(阿佐ヶ谷教会牧師)を代務者とする開設式が、真壁巌教区副議長の司式にて、厳かに執り行われました。
こうしてようやく、「立川からしだね伝道所」という一つの霊的な教会(伝道所)の開設にまで至りました。
多くの実を生むと信じ
しかし、喜んでばかりはいられません。この伝道所を主の体なる教会に育てあげねばならないからです。目下の課題は、「専従者招聘」と「朝礼拝開始」の実現です。夕礼拝出席者の中には、まだ少ないですが、求道者やしばらく教会を離れていた方々もおられます。
この町(東京の西郊)には収穫の実が多くあります。収穫を刈り取る“働き手”が少ないのです。伝道は、「無駄」と「失敗」によって進みます。人の計算で実現する業ではありません。神の業です。収穫の主なる神を信じて、ひたすら種を播き続けて、刈り取る働きに徹するとき、必ずや多くの実を生むと信じます。
教団は、37総会期に続き、38総会期も石橋議長の下「伝道に燃える教団」を目指します。立川における開拓伝道が一つの契機になって、停滞する日本伝道に“伝道の炎”を投じたいと願っています。
(道家紀一報)

小﨑弘雄氏(隠退教師)
13年1月22日逝去、86歳。東京都に生まれる。’52年日本基督教神学専門学校を卒業。同年岡崎教会に赴任、07年まで刈谷教会を牧会し、隠退した。遺族は息・小﨑眞さん、娘・芹野恵美さん。

土山牧羔氏(栂・泉ヶ丘伝道所主任担任教師、泉北ニュータウン教会兼務担任教師)
13年1月28日逝去、93歳。大阪府に生まれる。’58年プリンストン大学大学院を修了。’48年阪南教会に赴任、大阪丸山教会、阪和泉ヶ丘教会を経て、泉北ニュータウン教会、栂・泉ヶ丘伝道所を牧会した。遺族は息・土山牧夫さん。

杉田太一氏(隠退教師)
13年1月29日逝去、87歳。兵庫県に生まれる。’54年京都大学を卒業。’80年受允、’82年受按。’80年伏見東教会に赴任、西宮基督教センター教会を経て、’86年より07年まで京都西田町教会を牧会し、隠退した。遺族は妻・杉田智登瀬さん。

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