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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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ルカによる福音書16・1~18

2025年2月26日
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
2025年2月25日
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
2025年2月24日
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
2025年2月23日
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
2025年2月22日

罪人を招くために来た

藤盛 勇紀

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9章9〜13節)

呼ばれて立ち上がる座っていた者

 徴税人マタイが、イエスに召されて弟子となる。この「マタイ」は、マルコ福音書やルカ福音書ではユダヤ名「レビ」だが、マタイはこの福音書を書いたマタイと考えて良い。記事は実に簡潔だ。あまりにもあっさりしている。自分のことだからか。しかし、この極めて簡潔な記述の中に、マタイ自身が経験した真実が、凝縮されているように思われるのだ。

 マタイは収税所に「座って」いた。何でもないことだが、イエスは彼が「座っているのを」ご覧になった。金の勘定でもしていたのだろうか。しかし、「座って」いたことを記しているのはマルコもルカも同じ。座っていたマタイは、イエスから呼ばれると「立ち上がった」。そして思いもしなかった新しい生が開かれた。単純な話だ。

 私の教会の周辺では、夜になると若い人たちがコンビニで酒やつまみを買って、ベンチや地べたに座って小宴会をしている。歓迎会や忘年会シーズンになると綺麗な広場も汚されていることがしばしばだ。そんな様子を見ると、私が迷惑を被ったわけでもないのに、「なんだアイツら」と思う。しかし、その度に自分に言う(聞こえる)のだ。「お前は伝道者だろ。アイツらの中に入って行くくらいでなくてどうする」。でも、どうせ変なおっさんと思われるだけだろうし、地べたに座る若者たちは、「汚い」と思われようが、「おかしい」と言われようが、通りがかりのおじさんに注意されようが関係ないのだ。そう思いながら、彼らを横目で見ながら、私はまたビールを買って一人帰る。

 マタイは座っていた。しかしこれは、宴会ではない。ふだんのふて腐れた態度なのか、人生を投げた開き直りか。徴税人は一定額を納めさえすれば、あとはローマの権力を笠に取りたいだけ取る。貧しい同胞にも容赦ない。あのザアカイのように金持ちになり、悪魔のように忌み嫌われる。そんな仕事は、開き直ってなければ無理だ。「どうせ俺は、神の恵みだの救いだのには関係ない。どうせ新しく行く所もない。悪魔だ売国奴だと、何とでも言え」。

 そんなマタイに、イエスは声をかける。「私に従いなさい」。「はあ?どこのおっさんだよ」と悪態をつかれておしまい、でもおかしくなかった。しかし、そうではなかった。なぜか。マタイ自身も分からなかっただろう。なぜか分からないまま、マタイはイエス一行を招いて宴会を開いた。しかも「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」。娼婦らもいただろう。この楽しげで怪しげな宴会には、人から後ろ指を指される連中が集まった。傍から見れば、いきなり大変なことになっているが、イエスにとっては珍しいことではなかった。

イエスに触れられた者として出て行く

イエスは彼らをどう見ておられたのだろうか。「人から色々言われる連中だが、付き合ってみれば、本当はいいヤツら」なのか。「一緒に飲み食いして腹を割って話をすれば仲間になれる」ということか。しかし、そんなことで人を真の命に導くことなど無理だ。

 イエスは言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。イエスは、一緒にいる人々は「病人」「罪人」なのだと言われる。座っている所から自分で立ち上がって出て行けない病気なのだ、的を外したまま、その罪に堕ちたまま生きるしかない囚人なのだと。

 ところが、そんな罪の中に座り込んでいる病気のマタイを見て、イエスは「私に従って来い」と言われた。マタイの心にいったい何が生じたのか。聖書はそんな心理描写に関心はない。イエスはマタイをご覧になった。そして彼に呼びかけた。するとマタイは立ち上がった。そしてイエスに従った。それだけだ。彼の生き方がどうなったのか、だけが記される。

 彼は立ち上がってイエスに従った。そして派手な宴会を催した。同胞も食い物にするマタイは今や、イエスと周囲の罪人たちのために自分の財産を使っている。イエスがおられる所に生まれる不思議な交わり。こんな交わりは経験したことがなかった。しかも、誰の目を気にするでもない解放感。マタイ自身驚いただろう。どうしてこんなことになったのか。理由は一つ。他でもないイエスが彼をご覧になって、呼ばれたから。それだけ。

 イエスの眼差しは、いつもの人々の眼差しとは違った。軽蔑する目でも、恐がって見る目でもない。上から憐れむ目でもなければ、真面目人間ファリサイ派の裁く目でもない。イエスの眼差しは、人のそれではなかった。全てを投げ捨ててでも、この方について行きたい。なぜかそう思わされる眼差しに、マタイは捕らえられた。

 「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。この言葉は、ホセア書の主の言葉を思わせる。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。…わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」。

 ホセアは、「淫行の妻をめとれ」と主から命じられる。なぜなら「この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」と。主は、そんなどうしようもない民を憐れんで「胸を焼かれる」。

 それを、「行って学びなさい」。「行け」とは「出ろ」ということ。「出て行け」と。しかし私(たち)はひるんでしまう。アイツらの中に、なかなか出て行けない。

 イエスは罪人たちに、「私があなた方の罪を負う」とか、「私があなた方の代わりに裁きを受けて死ぬ」などと、恩着せがましいことは何一つ言われなかった。ただ、口を開かずに屠り場に引かれていく小羊のように、死んでしまわれた。

 自分が何をしているのかも知らずにいい気になって「十字架に付けろ!」と叫ぶアイツらを後ろ手にかばうように、死なれた。「父よ、彼らをお赦しください」。

 このお方とその言葉に触れられると、なぜか立ち上がる。主よ、私たちも出て行きます。(富士見町教会牧師)

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