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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4814号】▼監査委員会▲ 新旧委員合同にて引き継ぎ

2015年2月7日

 2014年11月19日に、第39総会において選任された監査委員3名(服部能幸・神奈川教区、奥山盾夫・東京教区、辻康・中部教区)と退任する2名の監査委員(寺門文雄、岩澤嵩)とで、引き継ぎのための新旧合同委員会を、教団会議室において開催した。

 その際、新監査委員への引き継ぎ事項として、公認会計士(任意)監査の必要の有無について、また、経理規定等の整備による内部統制の一層の確立の急務であることなど多くの意見が述べられ、新旧の委員で共有することができた。

 また、今期の重要な課題としては、引き続き、東日本大震災特別会計が重要な関心であることに変わりがない旨が確認され、12月11日に、当該会計の進捗状況について監査を行うことが確認された。その上で、12月11日の当該監査においては、被災教会等への「長期貸付金」の状況と、その20年間にわたる返済計画について、計良祐時財務幹事の下で作成された資料を検討した。その中で、資金の状況について意見を聞くと共に、資金繰りについて充分に慎重であって欲しい旨、意見を述べた。(服部能幸報)

中村 博氏(隠退教師)
 14年12月26日逝去、83歳。和歌山県に生まれる。59年に同志社大学大学院を卒業、同年より岡山博愛会、長岡、水沢、新潟、松山、コイノニア、倉吉教会を経て、00年に隠退。
 遺族は、妻・中村まき子さん。

泉 琉江氏(隠退教師)
 15年1月8日逝去、95歳。沖縄県に生まれる。44年に日本基督教女子神学専門学校を卒業、46年より福岡中部、犬飼、浜田、隈府、瀬高教会を経て、86年に隠退。

 青森松原教会は、本年10月に創立124年を迎えます。私が赴任してから3度目の冬を迎え、毎年様々な気づきが与えられています。

 1年目に気づかされたことは、教会が地域の方々に知られていないという現実でした。現在地に移転してから約30年。タクシーに乗っても場所がわからない、毎年行なっている行事チラシを配布しても「初めてやるの?」と聞かれる。「まず教会の存在を知っていただかなければならない」との想いを、強く抱かされた初年度でした。

 2年目に入り、通りに面した場所へ、夜はLEDライトで光る大きな案内看板を設置し、各案内チラシも配布範囲を拡大、町会の様々なイベントに携わり、教会ホームページを開設、教会フェイスブックも開始しました。

 地域との交わりが密になるにつれ、少しずつ地元にも教会の存在が浸透していきました。町会役員やその家族たちが伝道集会等に出席してくださるようになり、町会の回覧板に伝道礼拝のチラシを挟んでくださるようにもなりました。

 毎年与えられ始めた受洗者、毎週通う求道者の増加。少しずつ教会に活気が戻ったように感じ始めた2年目の終わり頃に、はたと気づかされたのは、それと反比例するかのように大きな勢いで沈んでいく青森県の現状でした。若者を中心に毎年1万人を超える人々が県外へと流出していきます。

 どれだけ伝道に力を入れようとも、それ以上の勢いで街全体が沈んでいく。このままではいけない。青森をどうにかしなければいけない。そのような想いで、青森を愛し、青森を元気にしようという取り組みに関わるようになりました。

 街づくりや、地域活性化を中心とした様々なセミナーに参加し、多くの学び仲間が与えられ、その仲間たちが教会の様々なイベントを手伝い、参加してくれるようになりました。そこで与えられたつながりから、八戸市教育委員会主催の中学校全校集会で、青森の活性化についての講演を依頼され、青森市や弘前市でプレゼンの機会を与えられるようにもなりました。

 けれども、私はあくまで「教会の牧師」です。何か新しい事業を始める訳でも、社会運動を行う訳でもありません。すべては伝道のための業です。なぜ牧師が、教会が、青森の元気についての夢を語るのか。それは、教会が古来より、「教育」と「文化」の発信地だったからです。教会から学校が生まれ、教会から音楽や美術といった芸術、文化が生まれ、そこに多くの人々が集うことによって新しいものが生まれた。地域のコミュニティの場であり、新しい創造の場、それが教会だと思うのです。

 忘れ去られた小さな街、ユダの地ベツレヘム。もっとも卑しい仕事と言われた羊飼い。クリスマスの物語には、もっとも救いを必要とする者の所へ、最初に福音が届けられた出来事が記されています。

 進む高齢化。止まらない人口の流出。貧困。人々のあきらめ。青森県や奥羽教区が抱く厳しい現状。しかし、そのような弱さにも目を注いでくださるお方がおられます。その救いの約束が十字架と復活にさやかに示されているのです。その確信を胸に、これからも地域に根差した福音前進のための働きを、続けてまいりたいと思います。

 2・11は、国民の祝日に関する法律で『建国記念の日』とし、「建国を偲び、国を愛する心を養う」と規定されています。この日は神話上の人物である神武天皇が紀元前660年2月11日に橿原に宮を建て即位した日とされる日で、1874年以来『紀元節』として守られてきたものです。それを、1967年に『建国記念の日』とし、祝日とされました。

 けれども、所詮神話です。紀元前660年2月11日が建国の日と考える人は、少なくとも日本の古代史の専門家の中にはいないでしょう。紀元前660年2月11日に、奈良の橿原に、強力な統一国家が建国され、天皇という祭祀と政治を司る大王が存在したと考えることは、通常できないからです。また、統一国家の形成や天皇制の確立、天皇という名称の使用は、紀元645年(一巳の変)から712年(日本書紀成立)の間に行われたと考えるのが一般的ですから、紀元前660年2月11日が歴史的に根拠のある日ではありません。所詮神話にすぎません。神話上の日にちと、神話上の人物を用いて、「建国を偲び、国を愛する心を養う」ことが求められた。これが、『建国記念の日』です。

 それにもかかわらず注意を要するのは、神話がわたしたちの日常生活の中で語られ用いられようとする時には、何らかの意図が存在してしまうということです。その意図に賛同できるならば、その人にとってその意図は感謝と喜びとなるでしょう。しかし、その意図に違和感を感じるならば、その人にとってその意図は苦痛となるでしょう。

 この国は、神武天皇によって建国されたわけでもなく、その日が紀元前660年2月11日であるわけでもない。けれどももし、「(神武天皇の)建国を偲び、(天皇を中心とした)国を愛する心を養う」という意図が、「公」によって行われるのであるならば、その意図に違和感を感じる者にとって、その日は苦痛の日となります。ましてや、その天皇が信仰の対象になったり、宗教的傾向を持つ祭儀を司るならば、なおさらです。

 わたしたちは2・11を迎えるに当たって、教会の重要な課題、「信仰の自由」を高らかに宣言いたします。また、日本国憲法に保障された「信教の自由」が堅持されるよう祈り求めます。

 各地の集会の上に、主なる神の祝福を祈ります。

(社会委員会 釜土達雄)

 茨城と言えば納豆」、「納豆にはねばりがある」、「納豆のようにねばり強く」、隣の伸ちゃんがすかさず、「あなたはねばり強くない」と指摘する。

 後藤道子さんが腹話術と出会ったのは、短大卒業後、キリスト教主義の幼稚園の教諭となって3年目に、職場から言われて参加したロゴス腹話術の初心者研修会だった。

 春風イチロー師匠(野田市朗牧師)が、人形と聖書を語ることを始め、研究会が発足。多くの人が集っていた。

 研修では大変厳しく、激しい口調で檄を飛ばす師匠は、一方で、優しく聖書の福音を説き、温かい言葉で励ましてくれた。その人柄と出会い、キリスト者の母を通して知っていた神様が、直接目の前に迫って来たという。この出会いを通して、洗礼に導かれた。

 その後、後藤さんは、忙しさもあって、腹話術からも、教会からも離れて暮らす時期を過ごす。この間、次男、伸介ちゃんが生まれてすぐに亡くなるという苦難を経験した。「伸介の代わりに、人形を育てたい」との思いを与えられ、師匠に人形を依頼したが、長い事、箱に入れたままであったそうだ。

 子育てが終わり、保育士として働き始めた頃、押入れから「伸ちゃん」を取り出した。何も語らない伸ちゃんに命を吹き込むべく、初心者研修から20年目の再研修が始まった。「上手くなりたかったら、教会に行き、聖書を読め」との師匠の言葉によって教会生活も再開した。現在は、自宅の傍にある常陸大宮チャペルに通っている。

 自らの証しでもある「納豆」の台本を書き、検定試験に合格、「春風ねばり」の芸名を受けた。「求めよ、そうすれば与えられる」との信仰のねばり強さへと、人々を促す。「残された命の時間、伸ちゃんと共に、苦しみを笑いに変えることを喜びとしつつ、語り続けて行きたい」と話す。

大阪生まれ。常陸大宮伝道所(茨城県)会員。

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