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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【5026号増刊号】常議員(教職)プロフィール(3面)

2024年12月14日

⑴出身地 ⑵出身神学校 ⑶牧会歴
以下より選択して自由に
☆趣味 ☆愛唱聖句(聖書箇所)・讃美歌 ☆長所・短所

◎50音順

大友英樹(おおともひでき) 東京教区 赤羽教会

⑴東京都
⑵東京聖書学校
⑶小松川教会、新庄新生教会、赤羽教会、塩谷一粒教会、東京聖書学校舎監、赤羽教会
☆イザヤ書55・8「わが思は汝らの思と異なり、わが道は汝らの道と異なれり」との御言葉をもって伝道者の召しを受けて献身しました。それゆえにただ主の御旨、主の道に従って仕えていくことを祈っています。

岡村 恒(おかむらひさし)西東京教区 高幡教会

⑴徳島県
⑵東京神学大学
⑶長居伝道所(当時)・大阪教会、玉川平安教会、大阪教会、高幡教会
☆映画鑑賞、ピアノ、弾き語り、動画編集、愛猫の世話
☆ヨハネによる福音書15・9、讃美歌(54)・517番、532番
☆ほとんど怒らない温厚さ。几帳面。英語とドイツ語が得意。冷静過ぎるところ。細か過ぎるところ。話が長く説明がくどいところ。

加藤幹夫(かとうみきお)中部教区 阿漕教会

⑴名古屋
⑵東京神学大学
⑶神学校卒業後、遠州教会で3年、阿漕教会で27年
☆登山が趣味ですが、最近、スケジュールが詰まってしまい、なかなか行けません。体力低下もあり、標高差のある山は、難しいかも?でも、脳疲労を防ぐためにも、主の恵みを味わいつつ、リフレッシュは大切と思っています。

岸 憲秀(きしのりひで)東京教区 千葉本町教会

⑴神奈川県
⑵東京神学大学
⑶堺教会、八千代台教会、千葉本町教会
☆ローマの信徒への手紙12・1、讃美歌二編3番
☆長所=愉快に生きること
 短所=周りを不愉快にすること

久世 そらち(くぜそらち)北海教区 美唄教会

⑴札幌
⑵東京神学大学
⑶旭川豊岡教会(1992年4月〜2003月3月)、札幌北部教会(2003年4月〜2023年10月)、美唄教会(2023年11月〜)
☆こどもの頃から「情緒安定」「のんき」と評されたほど、いつも穏やかでのんびりしていますが、それは一面では人の痛み悲しみに鈍感ということでもあります。

小堀 康彦(こぼりやすひこ)中部教区 富山鹿島教会

⑴栃木県
⑵東京神学大学
⑶東舞鶴教会(1987年〜2004年)、富山鹿島町教会(2004年〜現在)
☆「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(コリントの信徒への手紙一15・58)、讃美歌21・392番「主の強い御腕よ」

篠浦千史(しのうら ちふみ)四国教区 さや教会

⑴愛媛県松山市
⑵東京神学大学
⑶三津教会、斎院伝道所→さや教会、松山東雲学園中高非常勤講師
☆ローマの信徒への手紙12・15「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」、讃美歌21・18番
☆教団にある1650の教会・伝道所の味わう喜びや悲しみに寄り添いながら、主の御旨を聞きつつ主にある希望を抱いて歩んでいきたいと願っています。

菅原 力(すがはら つとむ)大阪教区 大阪のぞみ教会

⑴名古屋市
⑵同志社大学神学部
⑶これまで4つの教会で牧会の任を経て、現在の教会に仕えています。
☆向こうから呼びかけてくる書物を二度三度四度と読むこと。
 向こうから呼びかけてくる映画を二度三度四度と観ること。

武田 真治(たけだしんじ)関東教区 上尾合同教会

⑴三重県津市
⑵東京神学大学
⑶金城教会(伝道師)→東新潟教会→金城教会→広島教会→上尾合同教会
☆趣味(としなければならないこと)=前立腺癌治療後の身体の自己管理。特に、毎朝の幼稚園朝礼と園児お迎えの後に、しっかり汗をかくまで園庭の掃き掃除をしていくこと。がんばろう!

田中 かおる(たなかかおる)関東教区 安行教会

⑴東京都
⑵東京神学大学
⑶安行教会(1998年4月〜現在に至る)、2021年度より奥沢教会協働牧会、2024年度より埼玉中国語伝道所代務
☆相変わらず「食べること」
☆「見よ、わたしはあなたと共にいる」(創世記28・15)身から出た錆とはいえ、孤独な旅の途上でヤコブが聞いた神の声。身に染みる。讃美歌(54)・461番『主われを愛す』。特に「我弱くとも、恐れはあらじ」が好き。

服部 修(はっとりおさむ)東中国教区 蕃山町教会

⑴静岡県富士市
⑵東京神学大学
⑶洗足教会担任教師、駿府教会主任担任教師、蕃山町教会主任担任教師
☆ゲーム全般。一人で夜中にテレビゲームで遊ぶことも好きだが、最近教会で月1回礼拝後にボードゲームカフェを始め、教会員の交わりの場の提供とともにボードゲームの楽しさを伝道している。

東野 尚志(ひがしのひさし)東京教区 滝野川教会

⑴京都府綾部市
⑵東京神学大学
⑶横浜指路教会、鎌倉雪ノ下教会、聖学院教会、滝野川教会
☆音楽・落語鑑賞(特に、バッハと古今亭志ん朝)
☆ヨハネによる福音書3・16〜17、フィリピの信徒への手紙4・4〜7、讃美歌(54)・265番、333番、二編80番

藤掛 順一(ふじかけじゅんいち)神奈川教区 横浜指路教会

⑴神奈川県
⑵東京神学大学
⑶富山鹿島町教会、横浜指路教会
☆「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリントの信徒への手紙一15・54、55)、讃美歌21・152番「みめぐみふかき主に」、いのちある限りは、みわざ宣べ伝えん。

宮本 義弘(みやもとよしひろ)東海教区 沼津教会

⑴三重県
⑵東京神学大学
⑶前橋中部教会(4年)、富山新庄教会(14年)、沼津教会(23年)教会
☆2020年4月からコロナの恐怖の中で「御言葉が響き合う」というハガキサイズのエッセイを書き始め、それがライフワークになっている。聖書の言葉が生活の中で喜びを見つけ出す力があることを知らされ、やめられなくなってしまった。

一つなるキリストの体として

雲然俊美議長

〈神の召しとして〉

 この度の教団総会で議長に再選されました。責任の重い務めですが、主なる神さまの召しとして、2年間の任期を全うしたいと思っております。引き続きお祈りいただきますようお願いいたします。

〈キリストの体なる教会〉

 教団形成における祈りは、教団が一つなるキリストの体(エフェソ4・4)として立ち、各地に立てられている教会・伝道所がその体の部分として(Ⅰコリント12・27)生き生きと福音の恵みを証しし、伝道に励む教会として立つことです。

 具体的には、日本の各地でキリストの福音のために日々労苦を担っている教会・伝道所の存在を覚え、相互に祈り合い、支え合う関係づくりを進めたいと思います。また、関係学校・団体・施設等と伝道のネットワークを形成し、維持して行きたいと願っています。

 そのためには、教団および諸教会・伝道所が、2024年に制定70年を迎えた教団信仰告白を告白し、教憲・教規に則った歩みを進めることが何よりも大切なことです。

〈今総会期の取り組み〉

 今総会期においても、教団における諸課題について常議員会で丁寧に議論し、具体的に取り組んで行きたいと思います。

 諸課題につきましては、前総会期最後の常議員会で、今総会期への申し送り事項(能登半島地震被災教会会堂等再建支援活動、教団出版局業務・経営改善、教団機構改定、教団財政問題、沖縄教区との関係回復の5項目)を承認していることから、これらの課題に取り組みます。

 それらに加えて、前総会期の常議員会や教団総会等で指摘されている課題として、教師養成制度検討委員会が作成し、常議員会が承認した教団の教師論の活用、伝道資金制度の運用上の課題の検討、教団部落解放センター会計のあり方の検討、セクシュアル・ハラスメント相談窓口と対応手順の検討、内外諸教会・その他との関係といった事柄があります。これらの課題についても常議員会で審議して行きたいと思っております。

 これらの諸課題は、いずれも解決や対応に苦慮するものであることは明らかです。全国の教会・伝道所、主にある兄弟姉妹の皆様には、ぜひお祈りいただき、お支えくださいますようお願いいたします。


ようやく課題に取り組む時が来た

藤盛勇紀副議長

 前回の総会で副議長に選出されて以降、周囲に「1期だけですから」とささやきながら務めてきましたが、再選されて2期目に入りました。あと1期、主の助けをいただいて、何とか務めを果たしたいと願います。副議長の務めは議長の補佐。議事運営はもちろん、教会的機能と教務を総括する議長の教団形成の考え方や方針を理解しながら、議長を助ける働きに徹したいと思います。

 今総会期の常議員会に申し送られた基本的な5つの課題は(能登半島地震被災教会会堂等再建支援活動、教団出版局経営改善、教団機構改定検討、教団財政問題の取り組み、沖縄教区との関係回復)いずれも重要課題であるだけでなく、直ちに取り組んで実効性のある議決をし、執行していかなければならないものです。

 特に出版局の経営改善については、十年以上前に私が総務幹事だった時から、まずは経営主体と責任主体が不明確である現状を変えるところから始めなければならないのではないかと考えていました。ただ、幹事という立場上、常議員会などで、常議員や出版局理事の方々の考え方を聞きながら、思い巡らすに留まっていました。

 それが、前教団総会で私が副議長に選出され、この問題に改めて直接触れることになりました。ただ、私は39・40総会期で信仰職制委員長をさせていただいた後は(2016年10月以降)、常議員会に陪席する機会もなく、機構改定などの教団の重要な課題についてどのように議論が進めて来たのか見ていませんし、出版局の経営改善についても、詳しいことはを知らないままの浦島太郎でした。しかし、雲然議長のもと、出版局の課題への取り組みは、石橋秀雄議長時代から引き続きステアリングコミッティなどで具体的に進められました。何より出版局の教団における位置づけと役割の再確認、経営主体・責任主体の明確化が前面に出されたことは、私としても願っていた課題にようやく取り組む時が来たと実感しました。

 私としてはこの期で最後。良い機が与えられたと受け止めて、現下の課題を少しでも前進させるために微力を尽くしたいと思います。教団の形成が諸教会・伝道所の働きの力となるよう、どうぞお祈りください。


伝道のネットワークを支えていくために

黒田若雄書記

 前総会で書記を担うことになった時、とにかく2年間と思い、全力疾走するような思いで歩んできました。先日の教団総会で、推薦を受けて、再度書記を担うことになりました。更にゴールが2年延びることになり、戸惑いの思いがあります。器ではない者が本当に再び担ってよいのかとの思いも、正直あります。しかし、お引き受けした以上、神の召しと信じて、与えられた働きに誠実に向き合って歩んで行きたいと思っています。

 これまでの2年の歩みも思いつつ、今心にあることを二つ記してみます。

 まず、教団の役割についてです。日本各地に教会がたてられている伝道のネットワークは、教団に与えられた貴い賜物であると思います。そのネットワークを支えていくため何が必要か、考えさせられています。

 今、教団の各教会・伝道所は、会員数の減少等、厳しい現状にあることを思います。しかし、様々な教会の歩みの報告や意見をお聞きする時、単に厳しい現状だけではないことも思わされます。四国教区でも、伝道協力体制を形成し、新たに教会建設を目指して伝道の取り組みがなされています。また、所謂「小規模」教会が教区互助の支援を受けて、牧師招聘の準備を行っています。そのように、教団のそれぞれの教会・伝道所は、厳しい状況の中で、更に前に向かって進もうとしています。そのような各教会・伝道所の志を支えていくためにこそ、教団・教区はあるのだと思います。各教会・伝道所のために何をすべきか、このことを心に、2年間の働きを担っていきたいと思います。

 もう一つは、祈られている幸いです。教団総会を終えて、翌日の高知教会の祈祷会で、多くの方が教団書記の働きを覚えて祈ってくださいました。また、数日後、他教区のある教会から、「選ばれた三役のために祈ります」との言葉と共に、祈りの寄せ書きを送ってくださいました。そのように、多くの方々に祈られていることを実感させられています。そのような祈りに支えられ、また、神に支えられて、2年間の働きを全うさせていただきたいと思っています。

 引き続き、貧しき器のためにお祈りいただけますならば、感謝です。

 近々、市民活動の「秋田九条の会」が発足20周年を迎えるにあたって挨拶と発言をする予定である。同会には、立ち上げの準備の段階から関わり、発足した際は教会役員会の了承を得て、秋田桜教会牧師の肩書で共同代表の一人になった。

 以来、同会主催の集会に出席した際は他のキリスト者の会員と祈りを合わせている。以前、集会開催の準備の時に求められて、皆の前で祈ったこともある。

また、憲法改正を党是とする政党の「日本国憲法改正草案」に関する学びでは、同改正草案の「信教の自由」の改正条項の問題点(社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、国及び地方自治体その他の公共団体による特定宗教の教育や宗教活動を認める)を指摘するなどした。特に、緊急事態の宣言が発せられた場合、身体拘束の自由、思想・良心の自由、表現の自由等の基本的人権に関する規定は最大限に尊重されなければならないとしながら、その中に信教の自由の保障が含まれていないことを指摘した。ある弁護士は「宗教の狙い撃ちだ」と発言した。

 今日も不安定で流動的な世界情勢の中で、憲法改正の動きが続いている。憲法改正(改悪?)は、私たちの信仰の良心に基づく発言や活動に直接的に関わっている。あらためて、平和を祈り求め続ける務めが与えられていることを思う。

(教団総会議長 雲然俊美)

台湾基督長老教会は各界の支援に感謝

 2024年4月3日午前7時58分、花蓮沖合でマグニチュード7.2の強い地震が発生しました。中央災害応急センターの報告によると、花蓮403地震は25年前の921大地震以来、台湾で発生した最も深刻な地震です。今回の地震により、18名が命を落とし、1155名が負傷、3名が行方不明となっています。さらに、花蓮市内の多くの住宅や、台湾基督長老教会の礼拝堂も損壊を受けました。加えて、長老教会の重要な原住民神学機関である玉山神学学院も大きな影響を受けました。

 地震発生後、台湾基督長老教会の陳信良総幹事は、地震の影響を受けた地区の教会に対し、できるだけ早く救援センターを開設するよう指示しました。また、総会の教社(教会社会)委員会の林偉聯幹事には、教会内での死傷者の数や、家屋の被害状況を把握するように命じました。これまでの整理によると、今回の地震で3名の教会信徒が命を落とし、19世帯の信徒の家屋が深刻に損壊し、住むことができない状態になっています。台湾基督長老教会のFuyan Suda総会議長と陳信良総幹事は、教会の信徒が地震で命を落としたことを聞き、花蓮の災害地域に赴き、遺族への慰問と関心を示し、共に泣き、また負傷者の早期回復と災民の生活が一日でも早く復旧することを祈りました。

 当教会で最も深刻な被害を受けた玉山神学学院のWalis Ukan院長と学院の教職員が被害状況を確認した結果、損壊した場所は、学院内の夫婦用宿舎、男子寮の外の道路、教室や寮内の内部の損壊がありました。さらに、教育棟の屋上の梁に亀裂が入り、鉄製のシャッターが壊れ、教育棟内のティールーム、トイレ、食堂、女子寮の壁にも亀裂が入っていることが確認されました。また、図書館の壁にも亀裂が見られました。

《平安音楽会が花蓮の災民に平安をもたらす》

 台湾基督長老教会は、403地震で被災した人々の心身を癒すため、6月15日に花蓮自由広場で「花蓮平安音楽会」を開催しました。林偉聯幹事は、「今回の音楽会は、被災者に平安のメッセージを届けることを目的としています。大災害を経験したとしても、被災者は決して孤独ではなく、温かい手を差し伸べる人々がいることを伝えたかったのです」と語りました。

 この音楽会には、ウクライナ台湾チーム、花蓮港教会、鳳林教会、大安教会、Tafalong教会などが出演し、約5000名の被災者を伴って、音楽とダンスを通して心を励まし、地震によって引き起こされた痛みを乗り越えるための勇気を与えることを目的としました。

 林偉聯幹事はさらに、今回の地震で400万台湾ドル以上の寄付を受け取ったことを伝えました。第一段階では、亡くなった方々の遺族や負傷者、家屋や教会の損傷に対して慰問金が支給され、その中で100万台湾ドル以上が台湾社会各界からの寄付によるものです。この一部の寄付金は、この平安音楽会の開催に充てられました。また、5000枚の100元分の遊園券を被災者に配布し、花蓮の商店に商品を販売してもらうことで、地域経済の活性化を図り、花蓮への観光客の誘致にもつなげています。これは聖書のパンの奇跡を思わせることでした。

《エキュメニカルな教会の関心と支援》

 台湾が大地震の災害に見舞われた際、台湾基督長老教会は世界中の普遍的な教会から多くの関心と慰問の言葉を受け取りました。これらの教会は、台湾の教会と共にこの痛みの時期を乗り越えることを願っていました。「これらの慰めと支援によって、台湾が孤立していないことを深く感じました。台湾と台湾基督長老教会がこの困難な時期を共に歩むために支えてくださったすべての方々に心から感謝します」と、陳信良総幹事は述べました。

 さらに、今年の4月に台湾基督長老教会が「第69回総会通常議会」を開催した際、日本基督教団の雲然俊美議長が招かれ、「今回の台湾東部沖を震源とする地震で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。また、すべてのキリスト教会において、主なる神の支えと導きをお祈り申し上げます」と、支援と励ましの言葉を述べました。また、「花蓮地震が発生した際には、日本の沖縄地域でも揺れを感じました。台湾と沖縄の間には海がありますが、海底でつながっているのです」と語りました。台湾は長年地震の影響を受けている国であり、今年初めに日本で能登半島地震が発生し、多くの犠牲者と家屋の損壊がありました。台湾基督長老教会も、日本の教会が地震災害に直面している困難を深く理解し、心からの支援と慰問を表明しました。それを受けて、雲然議長は「私たちは、主なる神が創造された地球上で共に存在する運命共同体です」と述べました。

《総幹事の感謝の言葉》

 陳信良総幹事は、世界中の教会が手を差し伸べてくれたことを見て、「困難な時にこそ真の友情が見える」と語り、台湾が災害に見舞われた際に、世界中の教会が見捨てることなく、心を込めて関心を示し、支援の手を差し伸べてくれたことに感謝の意を表しました。「台湾は災難の中にありますが、神の愛が私たちを強く結びつけ、台湾の困難を自分のものとして共に担ってくださったことに、心から感謝しています。教会の支援によって、神の恵みが現れています」と述べました。

 (蔣記剛報/台湾基督長老教会エキュメニカル専任)

あり得ないはなし

ルカによる福音書2章18節

「キリスト」とは何ものか

 いまさらながらでありますが、「クリスマス」という言葉は、「クリス」と「マス」がくっついてできた言葉。「クリス」は「キリスト」のこと。「マス」はカトリック教会の礼拝をミサというのにつながり、私たちの言葉で言えば「礼拝」となるでしょう。つまり、「キリストを礼拝する」というのが、クリスマスという言葉の意味と言えるでしょう。古めかしい言い方ですと、東方の博士たちが長い旅をして、新しい王としてのキリストを拝み(礼拝)に来たのも、まさにクリスマスだと言えるでしょう。私たちもその言葉のとおりでありたいものです。

 ただ、歴史を振り返ってみますと「キリスト」の中身がいくらでも入れ替えられてしまうことが起こっているように思えます。人は実に都合よく「キリスト」の中身をすり替えるものではないでしょうか。

 「キリスト」とは何ものか。飼い葉桶の中の赤子は、キリストとしてどのように歩んでいくのか。キリストとは、「救い主」という意味であるのは承知されていることでしょうが、いったい何から、誰を、どのように救ってくれるのか。そもそも「救い」とは何なのか。そんな当たり前に分かっているだろうと思っていることが、案外的外れになってしまっていないか、よくよく考えてみる時としてクリスマスの時が与えられているように思います。

「つまずき」に満ちた生涯

 主イエスのご生涯を聖書に見ていきますと、クリスマスという誕生の出来事ばかりでなく、不思議なことばかりです。およそ30才の頃、公の活動を始められた(ルカ3・23)とあります。それまではナザレの村で大工をしておられたよう。ところが人から見れば「突然」、おそらくご本人にすれば「時満ちて」公の活動を始められます。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って伝道をされ、弟子たちを召して町々を巡り、そしてやはり時が来たのを知ってエルサレムへと向かわれ、十字架に架けられていくわけです。大勢の人たちが全国から癒してもらおうと、また話を聞こうと集まったとあります。政治的な背景が何も見えないこの「ナザレのイエス」と言われる人物が、当時の権力者たちにとってどうしても排除しなければならない存在になっていったのは、何故なのでしょうか。考えてみますと、人は集まっているが何の統率もできておらず、政治的な脅威になるとはとても思えません。それなのに、権力者たちは民衆を煽り立てて「十字架につけろ!」と叫ばせます。遂に「キリスト」は十字架に架けられていきます。主は何の抵抗もせず、不法な裁判にもかかわらず、その裁きを黙って受けていかれます。

 クリスマスの出来事の「不思議さ」や「あり得なさ」は、クリスマスだけのことではなく、主イエス・キリストのご生涯、主イエス・キリストの存在そのものが、「不思議」と言ってもいいかもしれません。いや、「不思議」というレベルをはるかに越えて、「つまずき」とでも言うべきものではないでしょうか。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一の1章18〜25節で「十字架につけられたキリスト」が「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」であると言っています。神さまが与えようとしてくださる「救い」を十字架に見るのは、決して当たり前なわけでも、すんなり受け入れられるものでもないということでしょう。「そんなバカな話があるわけがない」、「訳わかんない!あり得ない!」と言われて、スルーされるのが落ちです。

あり得ない恵みの中で生かされる幸い

 主イエス・キリストの救いをいただくには、十字架という「つまずき」にきっちりと向き合わなければならないのではないでしょうか。それは自分に都合の良いキリストを理屈をこねて作り上げるのではなく、十字架の前に立った時に、まっ先に自分が鏡に映し出されるように見えてきてしまうこととなるでしょう。そこに映る自分の醜さ、汚れ果て、血にそまった手をしているのに、向き合わなければならなくなります。そこから逃げ出したくなるのを、不思議にもとどめられて、なお十字架を仰ぎ、十字架の言葉に聞く時、そこに復活の主イエスと相対していることに目を開かれるのです。最後の晩餐で、主が「これはあなたがたのためのわたしの体」と言ってパンを裂いて渡されたのと同じように、この十字架はあなたのためのものだと、その御手が差し伸べられるのです。

 文豪ドストエフスキーは『罪と罰』というタイトルの小説を書きましたが、この作品は、罪を犯してしまった者が、どんなに自分で償いをして罪を消そうとしても消しきれず、本当に罪をなくすことができるのは、キリストの十字架による命の代償(贖罪)だというところに行き着かせるものだと思います。罪を自覚するのがきっと第一歩で、それも自力ではできません。不思議な導きの中で、鏡の前に立たせられて八方塞がりになってしまいます。しかしまさにそこに復活の主が相対して下さり、その釘跡のついた手が差し伸べられてくるのを見出すのです。それが愛の御手であることに目を開かれていく時、深い悲しみをもって悔い改めて、その御手に自分のすべてをゆだねていくことになるでしょう。それを生ける主こそが、しっかと受け止めてくださるのです。

 不思議という言い方を重ねてきましたが、そこには深い神さまの憐れみがあるのだと言ってよいと思います。あり得ないのは神さまの救いの御業の方ではなく、救われるはずのないこの自分が赦され救われたことです。生ける復活の主イエスとの対話の中に、尽きることのない赦しをいただきつつ、天の御国を目指して生きていけるということです。クリスマス、その不思議さ、あり得なさは、すべて十字架と復活を見ろと指さしているものだと聖書全体から聞きます。飼い葉桶に眠る小さな赤子の主の手が、やがて十字架に釘打たれるのを私たちは知っています。飼い葉桶もあり得ないが、釘跡のついた手がこの自分に差し出されてくるのもあり得ないのではないでしょうか。あり得ない恵みの中、生かされている幸いを、「クリスマス」という言葉に立ち帰ってかみしめたく願います。

(小金井緑町教会牧師)

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