by Lutz Drescher Secretary, East Asia Liaison Desk Evangelical Mission in Solidarity
The virgin will conceive and give birth to a son, and they will call him ‘Immanuel,’ which means ‘God with us.’” (Matt. 1:23)
It sounds like blasphemy to claim that the eternal, all-transcending God, who is far beyond everything we can ever think or imagine, is “human.” But this is exactly what happened at the very first Christmas more than 2,000 years ago. God became human.
God as the Child God showed himself not as a hero gifted with supernatural power but just the contrary. The Bible tells us that he became a small baby, utterly helpless, in need of love and care. “In need of love and care.” That’s not accidental; that’s God’s way of making it easy for us to love him. My experience while traveling through many countries is that wherever there is a small child, it brings a smile to the faces of the people; it makes them soft. The helplessness of small children generates tenderness and the wish to protect and to embrace. This is one of the ways in which the inconceivable God encounters us and enables us to love (him).
The God With Us God revealed himself in Christ Jesus and became fully human, sharing our life from the cradle to the grave, or in Christ’s case, to the cross. We only receive the full understanding of Christmas at Good Friday and Easter. The cross is the event in which we know that God is bearing and sharing in himself the wounds, the pain, the suffering of human beings. God is truly “Immanuel,” and thus really is “God with us.” When we look at the cross and Christ’s passion, we start to understand that God is not an apathetic God but a sympathetic and compassionate God. God is in solidarity with humankind. God himself is weeping wherever people weep, and he wants to be near to all who suffer. At Easter we celebrate the hope that suffering and death will not have the last word, that in midst of suffering there can be comfort, and that death is transformed into new life.
Three years ago our mission organization changed its name without changing its acronym: EMS. The “S,” which formerly stood for “Southwest Germany,” now stands for “Solidarity.” Instead of continuing as a regional mission society with partners in many parts of the world, the Evangelical Mission in Solidarity is now an international fellowship with 28 members in ten countries, the Kyodan being one of them. In this fellowship, we share our life concerns, we share sorrow and joy, we pray for each other, and we try to be in solidarity with each other.
The churches in the Middle East are extremely grateful for the donation they received from the Kyodan for their work with Syrian refugees. They received this gift as a sign showing them that people in Japan are concerned, are praying for them, and are in solidarity with them. Likewise, the members in the EMS fellowship, and especially the church in Wuerttemberg, were deeply shocked to see pictures of the devastation of East Japan Disaster. We have a special concern for the victims of radiation caused by the nuclear meltdown resulting from the tsunami.
When we visited the Tohoku Region three months after the disaster, we were asked: “Please don’t forget us when the CNN effect is over.” We still take this request seriously even today, and each one of the numerous visits of EMS staff and members and the moving encounters we have reminds us of this again and again. We remember those who have lost their loved ones. We feel with those who have lost their homes and especially with those who will not be able to return to the place where they and their ancestors once lived. Even after moving to new housing, in a way they remain “homeless.”
And we are deeply moved when we meet parents who worry about the effects that radiation exposure will have on the lives of their children. We pray for all these people and for those who are standing beside them to strengthen and comfort them. And last but not least, we are grateful to God that he has provided funds which enabled us to support the wonderful work done in Kamaishi, Ishinomaki, Sendai, and elsewhere.
All that we are doing together is a witness to the compassionate love of God Immanuel. It is a small sign that God is really with us and in solidarity with us. It may be that all we are doing is a way of celebrating Christmas and hoping for Easter all year long.
「見よ、 おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マ タイ.1・23)
私達が考えたり、想像出来る全ての事をはるかに超 えた、永遠で全てを超越した神が“人間”であると主張することは、冒涜に聞こえるかもしれません。しかし, この事がまさに二千年以上前の最初のクリスマスに起こった事なのです。神は 人間となられました。
神の子としての神は、天から与えられた超自然的な 力を持ったヒーローとしてではなく全く反対の形で御自身を示されました。聖書は、彼は全く無力で、愛と保護を必要としている小さな赤ん坊 となったと私達に語ります。“愛と保護を必要としている”。それは偶然の出来事ではないのです:つまり、私達が彼を容易く愛せるようにと の、神様の取り計らいなのです。多くの国々へ旅をしている間の私の経験では、小さな子供がいる所はどこでも子供たちは人々の顔に笑顔をも たらし、人々にやさしさをつくりだします。小さな子供の無力さは、やさしさや、守ったり抱き締めてあげようという気持ちを生み出します。 此の事は、想像を超えた神が私達と出会い、私達が神を愛せるようにする道の一つなのです。
我々と共 におられる神は、イエス・キリストの中に御自身を現されました、そして ゆりかごから墓場まで、キリストの場合は十字架に至るまでですが、私達と同じように生き、完全な人間となられました。聖金曜日とイース ターにのみ、私達は、クリスマスの意味を完全に理解できるのです。
十字架の出来事において私達は、神が人間としての 傷、痛み、苦しみを神ご自身の中に背負い分かち合う事を知ります。
神は, 真に“インマヌエル”であり、そしてこの事により現実に“神は我々と共におられる”のです。我々は十字架とキリストの受難を見る時に、神は無関心ではなく思いやりがあり憐れみ深い方だと理解し始めま す。神は人間と連帯します。神ご自身は泣く者と共に泣き、そして全ての苦しむ人々に寄り添う事を望んでおられます。イースターには私達は 苦悩や死が最後の言葉ではないという希望や、苦悩の最中にも安らぎが有るという希望、そして死は新しい命に生まれ変わるという希望を称え ます。
三年前に私達の伝道組織は、EMSの頭文字は変え ずに名前を変えました。“S”は“Southwest Germany ” に由来していましたが、現在は “ Solidarity(連帯)”に由来しています。世界の多くの地域のパートナーとの地域の伝道集団として存続する代わりに,「連帯する伝道集団(Evangelical Mission in Solidarity)」は, 今や十か国、28のメンバー、教団もそのうちの一つですが、による国際的な 団体です。此の団体で私達は、我々の生命への関心、悲しみと喜びを共有し、お互いに祈り、そしてお互いの連帯に努めます。
中東の教会の群は、シリア難民の為に教団から受け た基金を大変感謝しています。彼らはこの贈り物を日本の関係者が彼らの為に祈り、連帯の印として受け取っています。同様にEMSのメンバー達、そして特にウイッテンベルグの教会は、東日本大震災の惨状の写真をみて大変なショックを受けました。私 達は津波による核芯の溶解(メルトダウン)に起因する放射線の被害者を特に心配しています。
私達が震災の三か月後に東北地方を訪れた時、私達 は「CNN放送による効果が過ぎ去っても私達を忘れないで下さい。」と問われました。私達は今もこの問を真剣に受け止め、EMSのスタッフやメンバーによる相当数の訪問の都度、心を動かす出会いがあり、私達にこの事を何度も思い起こさせます。私 達は愛する人を失っている人達を想い出します。私達は家や又特に彼らや彼らの先祖がかつて住んだ場所に二度と戻ることが出来ない人達を思 います。たとえ新しい家に移っても、ある意味では彼らは依然“ホームレス”なのです。
そして私達は放射線の被爆が彼らの子供達の命にま で及んでいる事を心配する両親に会うと深く心が動かされます。私達は全てのこの様な人達と、彼らに寄り添い勇気づけ慰める人達の為に祈り ます。最後に大切なことですが、私達は、釜石、石巻、仙台、その他の所で行われている素晴らしい活動を、私達が支援できるようにと、神様 が基金を与えてくださっている事を感謝いたします。
私達が共に行っている全ての事は、インマヌエルの 神の憐れみ深い愛を証ししています。神が本当に私達と共にいて私達と連帯しておられることの、小さな徴です。私達がしている事のすべては クリスマスの一つの祝い方であり、一年中、イースターを待ち望むという事なかもしれません。
6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。
6:2 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。
6:3 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
6:4 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」
6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。
5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
5:33 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
5:34 そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。
5:35 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」
5:36 そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。
5:37 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
5:38 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
5:39 また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
5:12 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。
5:13 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
5:14 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」
5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。
5:18 すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
5:20 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
5:25 その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。
5:26 人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
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