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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4849・50号】▼社会委員会▲沖縄にてフィールドワーク実施

2016年10月22日

 第6回社会委員会が、9月26~28日に行われた。初日は沖縄でフィールドワークを行った。ひめゆりの塔、平和祈念資料館に行き、沖縄戦の悲惨な状況を学び、戦跡を見学した。

 2日目は、渡嘉敷島に渡り、金城重明牧師(隠退教師)の案内で、「強制集団死」の場所を巡り、話してもらう予定であったが、台風の影響で渡航ができず、日本基督教団真和志教会を会場にして講演してもらった。金城牧師は「強制集団死」の生き残りであり、『「集団自決」を心に刻んで』の著者である。

 なぜ「強制集団死」が起こったのか、その背景に明治以来の国家がほどこした皇民化教育があること、「強制集団死」の悲劇を詳細に語った。しかしその中で生き残り、戦後その苦悩の中で生きることとなった。この絶望の中でどう生きるか、その時にキリスト者の青年に出会い、キリストに導かれた。その後、神学校に進み、牧師として福音伝道と教育に仕えた。

 金城牧師のテーマとして「平和」がある。「平和を実現する者は幸いである。平和を造りだす者となるように」と語り、講演を閉じた。

 講演の後、嘉手納基地、辺野古の現状を視察した。

 最終日に委員会を開催し、芳澤信委員長が開会礼拝をした。礼拝の後、前回の議事録確定、諸報告を受けた。熊本地震緊急救援募金は、8月末現在で2127万345円集められていることが報告された。

 協議事項としては、社会福祉施設援助金について、今回は教団新報に記事を掲載することとした。社会委員会クリスマスプレゼントについては、例年通り行うこととした。社会委員会通信第49号発行に際し、最終確認を行った。

 その他、社会委員会の使命に関わる事柄について協議し、次期委員会へ引き継ぐ内容について確認をした。(加藤孔二報)

 第5回韓国・台湾・スイス協約合同委員会が9月15日、教団会議室を会場にして委員全員の参加をもって開催された。

 報告事項では、6月7〜8日に行われた韓国3教団(大韓イエス教長老会、韓国基督教長老会、基督教大韓監理会)との協議会(在日大韓基督教会は陪席)、7月6~8日にスイスのバーゼルで開催された三国間(スイス・韓国・日本)協議会、8月13~20日に行われた日台ユースミッション、8月22~25日に台湾の嘉義で開催された台湾基督長老教会と日本基督教団との第15回教会協議会などが加藤誠世界宣教幹事により報告され承認された。

 協議では、韓国3教団との協議会報告を受けて、今後の協議会の方向性と在日大韓基督教会の陪席の立場について話し合われた。韓国3教団との協議会は、宣教協約締結後数回行われたが、この20年ほどは開催されてこなかった。6月の協議会では、在日大韓基督教会から名称を「5教団協議会」に変更する提案がされた。

 当委員会では、宣教協約の文面に日本基督教団と韓国3教団が公の会合を持つ時には、在日大韓基督教会は陪席と記されていることを重視し、これからも協議会を継続してゆくことが確認された。なお、次回の協議会準備会は2017年2月20、21日にソウルで開催される予定である。

 三国間協議会の報告を受けて、協議会の中で出された新しい提案について協議した。それは従来の4年に1回の持ち回り式の協議会に代わり、2年に1回のペースで青年の集まりを開くという提案である。次回開催は韓国が担当であるので、2018年に韓国を開催地とし、スイス、日本それぞれ最大6名の青年を派遣することが承認された。これに伴い、委員会に青年を加えることが話し合われた。
(加藤 誠報)

印南眞人氏(無任所教師)
 16年6月21日逝去、68歳。73年日本聖書神学校卒業。77年より宇都宮教会、宇都宮峰伝道所(現宇都宮東伝道所)を牧会。
 遺族は妻・印南繁子さん。

 

丸尾美津保氏(別帳教師)
 16年6月23日逝去、99歳。大阪府生まれ。41年ランバス女学院神学部卒業。50年より53年まで大阪聖和教会を牧会。
 遺族は娘・高橋めぐみさん。

 

平山武秀氏(隠退教師)
 16年7月31日逝去、84歳。福岡県生まれ。57年同志社大学大学院卒業。同年より燕、長崎平和記念、松山、天満、神戸多聞教会を経て06年隠退。
 遺族は妻・平山博子さん。

 

久世 望氏(隠退教師)
 16年8月28日逝去、85歳。埼玉県生まれ。58年東京神学大学大学院卒業。同年より長野県町、篠ノ井、柏、上田新参町、篠ノ井教会を経て、03年に隠退。
 遺族は妻・久世サツ子さん。

 

藤田 祐氏(隠退教師)
 16年9月10日逝去、87歳。青森県生まれ。53年日本基督教神学専門学校卒業。同年より阿佐ヶ谷、武生、広島牛田、下松、小田原教会を経て95年隠退。
 遺族は妻・藤田晴子さん。

 

吉新和夫氏(隠退教師)
 16年9月14日逝去、90歳。旧朝鮮・清津生まれ。55年日本基督教神学専門学校卒業。同年より串木野、直方、八幡荒生田教会を経て13年隠退。
 遺族は娘・吉新ばらさん。

 

宗像 基氏(隠退教師)
 16年9月14日逝去、91歳。台湾基隆生まれ。51年日本神学専門学校卒業。同年より松崎、広島牛田教会、ブラジルでの宣教、西中国キリスト教社会事業団、小平学園教会を経て08年隠退。
 遺族は娘・宗像恵さん。

はじめに
 2016年、本校は創立して129周年となります。長い歴史の中で、特に太平洋戦争の時はいろいろな意味で困難な時代でした。是非この戦争前、戦争中、戦後に大きな働きをしてくださったアニー・メイ・マクラクラン先生(Annie May Mclachlan)のことについて、皆さんに知っていただきたく原稿を書かせていただきました。

1 来日から強制送還まで
 マクラクラン先生は、1895(明治28)年、カナダ大平原のマニトバ州パイプストーンに生まれました。先生は教員生活をしながらも婦人ミッションに入り、トロントの神学校で学び、1924(大正13)年に来日しました。それから途中2年間(昭和4〜6年)山梨英和で働きましたが、その後ずっと静岡で生活しました。先生のキリスト教の信仰に基づくすべての人たちへの愛は、多くの人たちに信頼され、愛されました。

 昭和16年になると戦争の影響が大きくなり、静岡英和の名前も「静陵」と変えられることになりました。そして、外国人への監視も厳しくなり、宣教師の授業は次第に禁止され、理事会にも出席出来ず、寄宿舎の宣教師用の一室に事実上の軟禁状態になってしまいました。先生はついに在米日本人と在日外国人の捕虜交換船により、本国カナダに送還されることになりました。

2 戦争中の本国カナダでの生活
 日本は、カナダ、アメリカなどの連合軍と戦争をしたため、カナダ、アメリカでの日系人は、敵国人として迫害されました。カナダでは、ブリティッシュ・コロンビアにタシメキャンプというカナダで最大で有名な収容所が設置され、多くの日系人が強制収容されました。このキャンプでは、子供の教育については小学校1年から8年までのクラスを置いただけで、高校を設けませんでした。カナダ合同教会は高校を設けるべきだとカナダ政府に抗議した結果、教会自らがキャンプ内に教師を送って高校クラスを作ることとしました。

 マクラクラン先生は、このタシメキャンプにいる日系の青年たちのために毎日200キロの道をバンクーバーから通いました。日本の敗戦、収容所の廃止まで、青年たちを教え励ましました。戦後、カナダ政府は、この強制収容所のことを反省し、日系カナダ人に対して謝罪と賠償に応じましたが、その時、カナダ政府は彼女のことを「カナダの良心」と褒め称えています。

3 戦後の静岡英和での活躍
 マクラクラン先生は1947年、敗戦後の日本を再び訪れ宣教師としての働きをしました。当時の静岡英和は、静岡空襲によりほとんどの校舎が焼けてしまいました。学校責任者は校舎の再建について苦労を重ねていましたが、カナダの教会の多額な資金援助により、なんとか再建をすることが出来ました。

 マクラクラン先生は、静岡英和での教育宣教の仕事と一緒に、家庭を開いて「バイブルクラス」をしていました。男女を問わずこの「バイブルクラス」には、ほんとうに多くの静岡の優秀な若者が集まりました。この「バイブルクラス」より原崎清先生、長澤巌先生、杉山謙治先生などの多くの牧師が巣立っていきました。

4 榛原教会時代
 静岡英和での働きが続き、その後、マクラクラン先生は榛原教会に赴任し、農村伝道のために働きました。このマクラクラン先生と榛原教会の長澤巌牧師との出会いは、教会員にも大きな影響を与え、後に榛原教会より重度心身障害者施設「やまばと学園」を生み出す原動力となりました。そして、この社会福祉法人「やまばと学園」は、今日では老人ホームなど多くの社会福祉施設が建てられています。

 私がとても素晴らしい出来事と思うのは、この田舎の小さな榛原教会が「やまばと学園」設立を決意したとき、その役員のほとんどが今の職を辞し、この施設の運営に参画したことです。

5 母国での生活
 この絵は、静岡英和の礼拝堂横の祈祷室に掛けられています。日本での働きを終えたマクラクラン先生は、母国カナダに帰り、妹さんと老人ホームで暮らしていました。晩年のマクラクラン先生は、毎朝この絵を見て、そして聖書を読んで、祈り一日を始めていたそうです。

 1991年10月13日マクラクラン先生が亡くなったとき、その葬儀に、静岡英和を代表して当時英会話の先生であったカナダ人のトレバー・バンフォード(Trevor C.Bamford)先生が参列しました。

 葬儀後、日本への形見として、この絵と聖書を持ってきてくれました。この絵は静岡英和に、そして、聖書は榛原教会に届けられました。この絵の内容は、「十字架の聖ヨハネのキリスト」というタイトルがついています。私たちは、この絵を見ながら、マクラクラン先生が「私を見ないで、私をそうさせているものを見てください」と言われたことをこれからも心に留めていきたいと思います。
(Kyodan Newsletterより)

 佐藤さんには、人に語れない空白の30年間がある。幼少期に家族から見捨てられ、暗闇の中を手さぐりで歩き、気付いた時には人生の裏道を歩いていたという。そんな中、信仰の道を歩み始めるきっかけとなったのは、一冊の聖書との出会いからだった。聖書が世界のベストセラーであると知り、興味を持ったところから、ある牧師にその気持ちを手紙で伝えると、その牧師が一冊の聖書を手に会いに来てくれた。その日から、前のめりにイエス様の教え・御言葉に傾倒していき、牧師の説教を聞き、一歩ずつ、確実に人間らしさを取戻していった。そして罪が赦され生まれ変わると知って、迷わず受洗を希望した。

 洗礼式は、東日本大震災(2011年3月11日)の2週間後に予定されていた。ところがその日、牧師の身内の突然の訃報で、洗礼式が5ヵ月の延期となった。なぜこのような出来事が起きたのか、「私は神様に見放されたのか」と、洗礼式までの5ヵ月間、懊悩し、煩悶する日々であったが、「今はあの5ヵ月間があったからこそ自身の信仰が深まり、それを確認することができた。これも神様のご計画のうちだったのかと、感謝と感動を新たにしている」と語る。

 その後、新しい生活の場を川口に与えられ、西川口教会を地図で見つけ、勇気を出して教会の扉をたたいた。ところが扉は固く閉ざされたままであった。消沈して背を向け歩きかけた時、入れ替わりに来た業者が、自分の気付かなかった呼鈴を押したことで、扉が開かれた。「その時はじめて、ここでも自分が神様に受容れられたのだと実感し、その思いは今確信に変わっている。御言葉を胸に、ただただ主の光を見失わないように歩んでいきたい。主とともに」と語る佐藤さんは今、光の子として歩んでいる。

福岡県出身、理容師、西川口教会員。

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