「エウティコという生き方」
聖書個所:週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
使徒言行録20章7~12節
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日本基督教団 伊東教会
牧師 上田 彰
キリスト教の中では、幸せということはよく語られます。主の教えを愛する者は幸いであると詩人は語り、貧しい者の幸い、また見ないで信じる者の幸いを主イエスは語ります。一方で、教会という枠をはずして世間に目を向けますと、よく聞くのは、「幸福」よりもむしろ「幸運」です。「運がつきまくる」とか、「幸運の星の下に生まれる」「運命の人と出会う」などはすべて「運」に関する物言いですが、幸運というのは幸福とは微妙に違う気もします。
今日の登場人物であるエウティコというのは、その名前の由来は「幸運」です。日本語でいえば幸多郎、という感じでしょうか。しかし、この名前の元の言葉であるエウトゥキアという言葉を辞書で立ち入って調べてみますと、確かに元々は「運」を強調する意味合い、英語でいうgood luck、という意味合いなのですが、そのうちに、「幸福」、ドイツ語でいうGlu"ckを意味するようになるのです。この場合の幸運と幸福の違いは、感謝が含まれるかどうか、です。良いタイミングに巡り会うことが出来た。そのことに感謝をする。だから幸福でもある。エウティコとは日本語でいえば「感謝太郎」という意味合いにもなる、というわけです。
使徒言行録の教会の人たちは、この日の出来事を、よいタイミングに巡り合わせた出来事として、感謝して受け止めました。
パウロが翌日出発するため、日曜の夜にもう一度教会のメンバーが集まりました。パウロにもまだ話し足りないことがたっぷりあったのか、真夜中まで話が続いたといいます。どのくらいの人々がそこにいたのかは分かりませんが、若い人が窓際に腰掛けざるを得なかったようです。
ところが、彼は眠ってしまった。その理由については今回は詮索しません。パウロは、書く文章に比べれば話すのが下手だったという話もありましたし、夜中であったということも理由になり得ると思います。問題は、眠りこけて窓から落ちてしまった、ということです。場所は三階。そこから落ちた彼の「運命」はさあいかに。
先に駆けつけた人たちの中に、おそらく、医者のルカが入っていて、彼自身が死亡を確認したと想像できます。脈を取ってから、うなだれて首を振る。周りにいる人たちが一斉に肩を落とす。
そこに遅れてやって来たのが説教者、パウロです。彼は、倒れている若者を取り囲む、時間が止まったかのように悲しみ始めている人々の間に割って入り、そして彼を抱き上げて宣言します。「騒ぐ必要は無い。彼は生きている」。説教の最中に彼はその作業を中断して、不慮の事故で亡くなっていたかに思われていた若者を生き返らせて、そして説教を続けるのです。
私自身、一人の説教者として、考えさせられました。自分は同じようにするだろうか、と。多くの説教者とおそらく同じように、可能な限り「何も無かったかのように」説教を続けようとするのではないか、と思いました。例えば、皆が、もうこれは説教やパン割き、礼拝どころではないと言い出して、気もそぞろになってしまう。今でいえば、礼拝が中断して自称関係者が次々と礼拝堂を出てしまう。気まずい思いで残っている人たちと礼拝を献げ、説教を続ける。そうなってしまう可能性を思えば、むしろ少なくとも説教者だけは説教に集中し、あたかも何もなかったかのように説教を続けた方が良いのではないか。
ただ、一方で思うのです。礼拝において、あるいは説教において、アドリブというのはどこまで可能なのだろうか。例えば野の花、空の鳥を見よという箇所で説教をしていて、そこに烏の鳴き声が聞こえてきた。それなら、ああ、エリヤを救ったあの烏もまた、空の鳥の一員なのです、とアドリブで語れればなんと礼拝が生き生きとしたものとなることでしょう。
原稿を読むことに集中し続けることで礼拝を続けるということもあるでしょう。しかし今そこで起こっていることを説教に取り込むことで、説教をライブのものに、生のものにすることが出来るということもあるのではないでしょうか。礼拝を礼拝とし、説教を説教とするのは聖霊の力です。その力が最大限に生かされる形で、パウロは説教を中断した。いえ、若者のところに駆け寄ることそのものによって、なされるべき説教を彼は続けた。そうも言えるのではないでしょうか。悲しみのあまり止まりかけていた時間の流れは、再び動き始めます。
牧師になるために勉強を重ねる中で出会った一人の恩師が、口癖のように次のようなことをおっしゃっていたのを思い出しました。「教会では、無事という言葉は使ってはいけない。無事に集会や行事が終わりました、というようなことは本当はあってはならない。礼拝では、なにかが起こるはずだからだ」。人間の考える計画通りになにかが起こる、というのでは十分ではない。確かに、使徒言行録とは、起こり続けるハプニングの記録でもあります。
今日の箇所では、人がよみがえるという「ハプニング」が起こりました。予定外に起きた復活の出来事です。しかし人々が驚いているのは、そして慰められているのは、よみがえりが起こったということそのものだけではないようです。むしろ、そのハプニングが起こったにもかかわらず、礼拝がいつも以上に豊かに献げられている、ということです。まさにすべてのことが「よいタイミング」で起こったのです。
こういったことを考え合わせたときに、エウティコのよみがえりの意味がはっきりするように思います。若者は死に、そして生き返りました。ちなみに今日の箇所では、生き返ったシーンははっきり描かれていません。生き返ったシーンをことさらに取り上げる必要がなかったようなのです。
気づかされます。私たちは、自分の力で生き、努力をしているつもりでいます。言ってみれば、死なないように努力をしています。生きることと死ぬことは、対極の事柄であって、たとえば地球の南極と北極のように、決して近づくことのない二つの相反する現象である。これが私たちの持ち合わせている常識です。
しかし、宇宙飛行船に乗って地球から離れていけば南極と北極の違いが大きなものではなくなってしまうのと同じように、キリストによって生かされていることとキリストによって命を取られることとの間にはそれほど大きな違いはないのかもしれません。
この教会の人たちにとって、エウティコが主の御言葉によって命が取られたことが明らかであった以上、主の言葉によってまた生かされることも明らかだったのです。だからパウロが「彼は生きている」と宣言すれば、それはもう間違いなくキリストによって生かされている。だから復活の記述が省略できたのではないか。主にあって生き、主にあって死ぬ。あるいは主とともに死に、主とともに生かされる。このことについて改めて考えさせられます。
今日の箇所で、幸いになったのは誰でしょうか。なんと言っても生き返ったエウティコ本人でしょう。彼は幸運なだけではなく、また感謝することが出来ます。また、その現場を目の当たりに出来た人たちもまた、突発的な出来事が神さまの示した調和の中に収まっていったことを知り、慰められました。もう一人、この良いタイミングの出来事に出会い主に感謝する者がいます。それはパウロです。彼は今起こった、よみがえりの出来事に立ち会うことそのものを、説教の一部に取り込む形で、織り込む形で、説教を続けるという忘れがたい体験をしたのです。
自分のこととして考える場合に、気になってしまいます。私は、この幸いなタイミングを逃さないような、聖霊の自由を受け入れる形で礼拝に与っているだろうか。さらには日常の生活を生きているだろうか。人間の秩序としてではなく、主にある秩序としての礼拝を実現し、また教会員と共に歩んでいるだろうか。
この時にはこうすれば良い、というような唯一の正解などはありません。すべての説教者が、すべての信仰者が、一生抱える課題であってよいと思います。
しかし、この日の集まりで出来事を目撃したルカやパウロは、神の与えるタイミングということについて深く考えさせられ、また深く感謝したのは事実です。
主によって命を取られ、そして主によって生かされる私たちは幸いです。出来事が起こり、感謝をする。これがエウティコという生き方です。
神さまの祝福が皆様と共にありますように。アーメン。