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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【2023年9月】今月のメッセージ「『罪人』への招き」

2023年9月1日

「『罪人』への招き」

聖書個所:イエスは、再び湖のほどりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事されるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マルコによる福音書2章13~17節
 ※動画はこちらから

日本基督教団 西片町教会
牧師 大久保正禎

 今からちょうど百年前の1923年9月1日、正午直前、関東南部一帯を巨大な地震が襲いました。地震に続いて「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」「爆弾を投げ、暴動・反乱を起こしている」といった流言蜚語が流布し、関東一円で警察や軍隊、また自警団等による朝鮮人の虐殺が引き起こされました。
 当時、朝鮮は日本の植民地支配下にありました。苛酷な植民地支配の下、日本の官憲は自由や独立を求める朝鮮人に「不逞鮮人」というレッテルを貼り、「治安維持」の名の下に激しく弾圧し、多くの命を奪いました。「不逞」とは、「勝手気ままにふるまうこと、あからさまに不満を表すこと」と辞書にあります。やがてこの言葉は一般にも拡がり、朝鮮人とみれば「不逞鮮人」と呼ぶ風潮が拡がっていきました。この言葉が、官憲の朝鮮人弾圧政策と一般市民の朝鮮人に対する警戒心や恐怖心を結び合わせ、官民挙げての朝鮮人虐殺を引き起こしていったのです。

 マルコによる福音書2章13節以下の場面で、イエス様はカファルナウムの町の収税所にいた徴税人レビに「わたしに従いなさい」と呼びかけます。徴税人は権力者の徴税の実務を請け負い、権力者への納税額以上に徴収して、余分に徴収した分を自分の収入にしていました。そのためにユダヤ教の教師や律法学者たちからは「罪人」「泥棒」などと呼ばれて忌み嫌われていたのです。そんな「罪人」「汚れた者」として疎んじられていた徴税人にイエス様は声を掛けたのでした。「わたしに従いなさい」と。
 この声にレビは立ち上がって「イエスに従った」とあります。「イエスに従う」という言葉はマルコによる福音書では特別な意味の込められた言葉です。単にイエスの後についていくというだけでなく、イエスの宣教を受けとめて、イエスと同じ生き方をしていこうと志すことを、マルコによる福音書は「イエスに従う」と呼んでいます。
 イエス様はレビの家で大勢の人々と食事を共にしました。食事を共にすること。それは、食べなければ生きていかれないという、人の命の持つ「弱さ」を、不都合なものとして排除するのではなく、互いに受けとめ合い、支え合って共に生きていくことです。そういうしかたでレビたちは「イエスに従う生き方」へと踏み出していたのです。
 ところがファリサイ派の律法学者たちはそれを見とがめて、弟子たちに問いただしました。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。彼らにとって、徴税人や罪人と一緒に食事をすることは、「汚れたものに触れるな」と教える律法の掟を破り、社会の「治安」を乱す行為と映ったのでした。彼らは「汚れた罪人」とレッテルを貼られた者たちを排除し、葬り去ることが、社会の「治安」を維持することであり、それが「神の御心」だと論じていました。
 イエス様はそんな社会のありかた・見方をひっくり返します。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。こう宣べてイエス様は、人に「不逞」「汚れ」「罪」「悪」というレッテルを貼って排除することで成り立つ社会のありかたをひっくり返したのです。ひっくり返すことはほんとうの姿を明らかにすること。この世のほんとうの姿は、神様が人に向かって「園のどの木からも取って食べなさい」と、そうしてどの命も「自分の命を生かしなさい」「生きなさい」と、呼びかけられた世界です。あなたがたが「汚れた者」「罪人」とレッテルを貼った人たちは、お互いの命の弱さを受けとめ合い、守り合い支え合って、このほんとうの世界の姿に従って生きているではないか。間違い、歪んでいるのは、「治安維持」の名の下に、その命を排除し葬り去ろうとするあなたがたの方ではないかとイエス様は問いかけたのです。
 「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である」。けれども、病人である者、病んでいる者、医者を必要としているのは、徴税人や罪人と呼ばれる人たちではなくむしろ、彼らを追い立て葬り去ろうとする律法学者たちのほうではないだろうか。そのようにして、人の命を襲い、傷つけ、奪い取ることで暴力に満たされた歪んだ社会を築こうとしている者たちのほうが医者を必要とする病人なのじゃないだろうか。この病んだ社会をいやすために、イエス様は「罪人」と呼ばれた人々を招き、「わたしに従いなさい」と、神様によって創られたこの世のほんとうの姿に従って生きるあり方へと呼びかけたのです。そして、今、同じように病み歪んだ世に生きるわたしたちをも、イエス様はこの、互いの命の弱さを受けとめ合い、守り合い、支え合う「罪人」の交わりへと招いておられるのです。

 在日朝鮮人二世の作家高史明さんが、1932年に山口県下関で生まれ、1945年の日本の敗戦に至るまでのご自身の生い立ちを綴った作品『生きることの意味』。その物語の最後近く、日本が戦争に敗れた時、父親が息子に向かってこう語りかけます。「日本人は、朝鮮が困っているとき、助けてくれようとしなかった。じゃが、いまは、日本が困難にみまわれているときじゃろ。これまでの日本人と同じことをしては、なんにもなるまい。他人のうらみを買うことをしたら、あとできっとそれはわが身に返ってくることになるんじゃ。困っているときは、だれとでも助け合うのが、人のとる道じゃろ。この人の道を踏みはずしたら、朝鮮の解放もありゃせん。解放されたというからには、困っている人を助けてこそ、ほんとうの解放というもんになるのじゃないか」。
 この時、日本人は、かつて自らが「不逞」と呼びつけた朝鮮人によって、招かれていたことを、知らされました。けれども、戦後の日本社会・日本人の歩みは、この招きに応えることなく、それを打ち払い、かえって朝鮮人を追い立て、葬り去ろうとする歩みでありました。そして今も、日本にしか生活基盤が無かったり、出身国で迫害の危険があったりするために出国できずに在留資格を失った外国人を、「不法な送還忌避者」として排除し、葬り去ろうとしています。しかし今も、招きの声はわたしたちのもとに届いています。「罪人」と呼ばれた者たちからの、ほんとうの罪人であるわたしたちへの招き。「罪人」の交わりへの招き。「わたしに従いなさい」と、そして「生きなさい」と呼びかけるその招き。どうか、この招きに、硬い心を砕かれて従ってゆく者でありたいと願います。

 お祈りしましょう。
 すべての命の創り主、命の源なる天の神様。
 わたしたちは、すべての命あるものとともに、あなたの喜びの知らせのもとに招かれています。けれどもわたしたちは、自らを真ん中に置き、自分の都合にしたがって人を「汚れ」「罪」「悪」と見定めて排除し、葬り去ろうとしてきました。しかしイエス様は、打ち散らされ、追い立てられ、葬り去られた者をこそ、ほんとうにあなたの御心に適ったものとして招かれます。命の弱さを愛し、共に生きなさいと呼びかけられるあなたの御声が響くこの世のほんとうの姿です。今、再び、そこからわたしたちに呼びかける声をわたしたちは聞きます。「わたしに従いなさい」と響くその声、イエス様の呼びかけ、心砕かれ、心開かれて従う者とならせてください。そうして、あなたの命の糧を、すべての人と分かち合う者とならせてください。
 今、この病める世のただ中で、命を傷つけられている人たちを守り、攻撃する人の手を打ち払ってください。どうか、わたしたちが、命を愛し、守り支えるあなたの御業の、新しき、良き器となることができますように。
 小さき祈り、わたしたちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

今月のメッセージ
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