「うつむかないで空を見上げて」
聖書個所:「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
マタイによる福音書6章25-34節
龍野教会
牧師 車田 誠治
龍野教会が大切にしている活動に、姫路での炊き出しがあります。
隣の姫路市にあるカトリック教会に場所を借りて、レインボーというボランティア団体の活動に加わる形で行っています。
毎月行われる炊き出しには、50人くらいの方が食事を受け取りに来られます。
食事を受け取りに来られるのは、ホームレスの人だけでなく、元々ホームレスだったが今は、アパートに住んでいる人や、少ない年金をやりくりしている人、働いているけど収入が少ない人、他にもそれぞれの事情で生活に苦しい人が来られています。
お手伝いしてくださるボランティアもカトリックの人も、プロテスタントの人もいるし、教会に接点のない人もいます。近隣の中高生や大学生も手伝いに来てくれますし、他にも特に何かに属しているわけではない人も多いですが、それぞれが思いを持って集まって、調理をして、食事を届けたり、衣類を配布したりといった活動を一緒に行なっています。
ここ2年ほどはコロナ禍ということもあって、集まることも一緒に食事をすることも難しくなり、活動が難しかったのですが、お弁当にして持ち帰る形にしたり、感染対策を工夫しながら活動を続けてきました。
最近は感染対策をしながらの活動にも慣れて、活動もしやすくなってきたのですが、なかなか以前のように世間話から生活の相談へ、必要であれば福祉や法律、医療の専門家に繋ぐということはできずにいます。
貧困困窮者の支援というのが、第一の目的なのですが、その活動の中で、ついつい上からの物言いになったり、凝り固まった考えになりがちな、自分自身に気づく時があります。同時にそんな考えを打ち砕いてくれる場面と時々出会うこともあります。
例えばアルミ缶集めをしているおじさんが、アルミ缶の買取価格の変動、そこからの経済の動向、国際情勢について独自の見解を語っているのを、ボランティアの学生だけでなく、大人たちも熱心に聞き入っていたり、お弁当を配布する前に、ボランティアが集まって何をしているのかと思ったら、その時に初めて参加した高校生がバイトで培ったレジ袋を素早く開ける技術を披露していて、そこに次々と大人たちが「私にも教えて」と集まってきてチャレンジしている様子はなかなか微笑ましい場面もありました。
路上で生活する人を訪問する中で、ボランティアの一人が「コロナの給付金は受け取れましたか?ホームレス状態でも受け取れるらしいから早めに手続きした方が」と声をかけました。
姫路でホームレスをしている人は、何人か私もお手伝いをしたので分かるのですが、細いいくつものハードルがあり、ほとんどの人が給付金を受け取ることはできませんでした。この人も受け取れなかった中の1人なのですが、その質問に怒ることなく「役所までNPOの人といったけどあかんかったよ」とその様子を説明しつつ「まぁ10万円貰わんでもオレたちは、何とかやっていけるけどね」というふうに締め括っておられました。
それを聞いたボランティアは初めは「ニュースでは、受け取れると言っていたのに」と困惑していた様子でしたが、帰り際には「ニュースの見方について、貴重な示唆をいただきました」と言って帰って行かれました。
何もかも理想的にうまく行っているとは言い難い、大変なことも多いし、できることの少なさに打ちひしがれることもありますが、こういった出来事や出会いを通して、一方的に与える側、受け取る側が存在するのではなく、それぞれが、大切なものを持って帰れる場としての意味があると感じ、気持ちを新たにされて、続けていけているのだと思っています。
聖書はマタイ福音書6章25節から34節。
ここではイエスの話を聞くために多くの人が集まっています。集まった人の境遇も様々だろうし、イエスに求めるもの、期待するものもそれぞれだったのではないでしょうか。それでも大きく二つのグループにわけることができると思います。
一つのグループはイエスについていけば、良いことがありそう、都会のエルサレムにまで行って一旗あげようと、野心を抱いていて、上をばかりを見上げている人。
もう一つは、イエスについて行く以外に居場所がない。何をやってもうまくいかない。何もいいことがないと俯いてばかりいる人。
一方はイエスの話を聞いても、自分に都合よく解釈してはしゃいだりしている、もう一方は話を聞いても、逆に不安を募らせて落ち込んでばかりいる。
そんな極端な相反する反応をする人たちに向けられたイエスの言葉には、それぞれに届くものがあったのではないでしょうか。
野心を抱く人には、これから向かう、エルサレムの神殿を思い起こさせながら「空を見上げたとき、鳥が飛ぶのを見ることができるでしょ。神殿の屋根の上に、皆に嫌われていたカラスが止まったりもするでしょう。人間が作った建物などたかが知れている。神が作られ、人々が嫌うカラスですら、それよりも高いところを行く。上ばかり見ずにしっかりと足元もご覧なさい」と。
逆にしたばかり見て俯く人には「地面に生えている綺麗な花を見つけられるでしょ、人間がいくら着飾ってもこうはいかないよ!あなたがふみしめている地面には、そんな神からの力が秘められているのですよ。俯いてばかりいないで、空も見上げて見なさい。他にも神が作られたたくさんの素晴らしいものがありますよ」
イエスの言葉に促されて、自然を観察するなら、その自然を通して、恵を与えられて神に生かされていることに気づくことができるのではないでしょうか。もっと周りを観察すれば、その時同時に、隣にいる人の存在に気づく。考え方は違い、時に意見は衝突しても、共に歩む仲間の存在に気づくことができるようになる。
聖書に記されているイエスの言葉は、思い込みや思い悩みを打ち砕いて、自由で柔軟な考えを持つことを促し、独りよがりではない、隣人とともに歩む、命への道を示してくださるのではないでしょうか。