さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 《マタイによる福音書 28章16~20節》
すべての民
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられたとき、弟子たちは戸惑い、むしろ反発すら覚えたことでしょう。
「すべての民」とは「すべての民族」という意味です。復活の主イエス・キリストは、「ユダヤ人だけでなく、他民族つまり異邦人たちのところに行って、彼らをあなたがたと同じ仲間としなさい」と言われたのです。
ここにいる弟子たちは皆、ユダヤ人です。モーセ以来の神との契約に基づいて自分たちこそは神の民であると自覚し、そのしるしとして律法を重んじてきたユダヤ人は、その裏返しとしてユダヤ人以外の諸民族つまり「異邦人」は神から遠いものとしてきました。そこには、長い歴史の中でユダヤ人が次々に他民族の侵略を受け支配され圧迫されてきたつらく苦い記憶も重なっています。異邦人を隔て退ける感情を、弟子たちもまた心に携えていたでしょう。
それだけではありません。マタイ福音書は、主イエスが「ユダヤ人の王」として生まれたことから書き起こし(2・2)、異邦人に対する主イエスのネガティブな言葉を記しています(5・47、6・32、10・5など)。こうした言葉を、弟子たちはむしろ深くうなずいて受け入れていたことでしょう。
しかし、よみがえった主イエス・キリストは「すべての民族をわたしの弟子に」と命じました。「すべての民族」には、これまでユダヤ人と敵対し、苦しめてきた人々も含まれなければなりません。エジプト人、カルデア人、エドム人、アンモン人、ギリシア人、ローマ人…。こうした人々が、自分たちと等しい弟子になるのだと言われ、ユダヤ人である弟子たちが戸惑わなかったはずはありません。
「行って、すべての民を弟子に」との主の命令は、つまり「あなたたちは、これまで仲間だなどとは思ってもいなかったあの連中と、等しい立場の仲間となるのだ」ということにほかなりません。「伝道」とは、今まで仲間だと思っていなかった人々といっしょになることなのです。
弟子たち
このときまた弟子たちは「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(20節)と命じられます。弟子たちは、主から言い渡されたすべてを、新しく仲間となる人々とも分かち合わなければなりません。
モーセ以来の律法はユダヤ人だけに命じられた掟であり、それゆえにそれを守ることは他の民族とは立場の異なる「神の民」のしるしでした。けれどもこれからは、どの民族出身であってもキリストの弟子のしるしを等しく共有するのです。先に従ったユダヤ人だからといって特別な立場は与えられないのです。
そもそも、このときの弟子たちにしても、そんなに確かな者たちではありませんでした。16節には彼らのことをわざわざ「十一人の弟子たち」と紹介しています。本来は「十二人の弟子たち」でした。しかし、そこに欠けが生じました。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダです。暗く、恐ろしい、とりかえしのつかない欠けです。「十一人の弟子たち」とは、その欠けを露にする言い方です。
ユダだけではありません。残った弟子たちは、よみがえった主イエス・キリストをひれ伏して拝み、神として礼拝しましたが、「疑う者もいた」(17節)のです。原文は、疑ったのは弟子の一部だけではなく、弟子たち皆が疑う者であった、と読むことができると言う人もいます。よみがえった主イエス・キリストに出会い、礼拝しているその中にさえ、なお疑いが含まれているのです。
欠けと疑いを抱えた弟子たち、不完全で不確かな者たちが、それにもかかわらず伝道へと促されました。このような彼らを主は用い導いて、隔てられ、退け合い、敵対していた者たちがそれでもいっしょになっていく歩みへと導いたのです。
主のみわざ
わたしたちは、今なお不完全で不確かな者たちにすぎません。それでも主は、わたしたちが隔てを乗り越えていっしょに歩み出すように命じています。いや、主はすでにわたしたちをそのように導いています。
40年以上前から、北海教区は「宣教の総合化」を掲げてきました。これは北海教区の諸教会の厳しく困難な経験の中から生み出されてきた考え方で、精密な学問的定義がなされているわけではありません。わかりやすく言えば「さまざまな教会の営みを、それぞれがバラバラに行うのではなく、つなげていく」ということでしょうか。
北海教区では、これまで「宣教の総合化」として、たとえば、わたしたちの生活のすべてを主の福音にかかわるものとして受け止めるとか、個々の教会の働きを教区の皆の課題として共に担うとか、「伝道」「社会問題」「礼拝」「牧会」などと分けてとらえられがちな具体的な宣教の課題をつながったものとして取り組むとか、いろいろな課題を携えた皆が一つ所に集まるとかいった、さまざまな実践が積み重ねられてきました。
その前提には、「隔てられ、違っているように見える教会の営みも、主によってつながっている」、「それだけでは不完全で不充分な営みも、主はそれをつなげて用いてくださる」という、主の御業への信頼があります。わたしたちが携わることができるのは、部分的な営みにすぎません。しかし、主はそれらをいっしょにしてくださるのです。
日本基督教団という弟子たちの群れもまた、そのような主の御手のうちに置かれていることを信じます。「すべての民を弟子に」と命じられた主キリストは、不完全で不確かなわたしたちをも用い導いて、隔てられていたものをいっしょにしていってくださいます。主は、そのような道をたどるわたしたちと、世の終わりまで共にいてくださるのです。 (教団総会副議長/ 札幌北部教会牧師)