昨年、教会の「百二十五年史」が完成し、皆で喜びの時を持った。私共の教会は数回の火災を経験して教会資料が消失しているため、教会史を編むことに十分な取り組みができなかったと委員から聞かされた。しかし、たとえ資料が少なくとも、長い教会の歴史を記すには、多くの時と労を掛けてその資料を読み取る作業が必要だったのであり、委員の苦労は言うまでもないのである。無くても困り、あっても難しいのが資料の取り扱いなのであろう。
この年度替わりの時期にいつも思うのは、一年の感謝と共に教会資料をどのように保存すべきかということである。週報や総会資料・役員会資料を始め、必ず残すべき資料はあるに違いないが、教会の信仰の息吹を伝える資料をどのように選び、また用い易い形で残すのかが課題なのである。教会の事柄を知るための資料はある程度同じものを積み上げることで満たされる。しかし後の人々が信仰の上で必要とするその時代毎の教会の姿や礼拝の喜びというものはなかなかに資料として残し難いものである。信徒の状況も幾人かを代表として捉えることが多い。しかし実際には、名前も知られない多くの先達の歩みがそこにあって、その時代の教会は形成されているのである。その意味では、これをそのまま伝える資料の保存は難しい。しかし教会資料は神の御業を伝えるものであり、後の時代の教会が聖霊に導かれ、信仰によって読み取るべきものなのであろう。
(教団副議長 佐々木美知夫)