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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4665・66号】新春メッセージ

2009年1月17日

エフェソの信徒への手紙2章19~22節
あなたがたは神の家族

山北宣久
 来りませ イエスよ
あなたの教会へ。
喜ばしき新年を
さずけたまえ
御名の栄光をたかめ
説教壇と聖餐台を祝福し 給え
 ...J・S・バッハ カンタータ61番「異邦人の救い主よ 来りませ」より
この祈り願いの言葉の中に新年を歩み出したい。
牛 年
干支の話をするのはどうかとは思うが、牛をめぐる二つの聖書の言葉を引用したい。
「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが/豊作をもたらすのは牛の力。」とある。(箴言14章4節)
牛を飼うと面倒だし不潔だといって遠ざけるが、結局はその牛によって豊かにされるのではないか。価値を見誤るところからくる人生の損失から、免れさせられたいものだ。
 「馬が岩の上を駆けるだろうか/牛が海を耕すだろうか。」
(アモス書6章12節)
牛で海を耕すようなことはしない。しかしこんなナンセンスにして不自然なことを人は平気でする。
常軌を逸した罪の道を主の贖いによって赦され、立ち戻らされ、明るく共に生きていきたい。
牛偏の漢字は三一一もあるそうだが最も印象的なのは「犠牲」である。主の十字架による犠牲を無にすることなく生かされて生きようではないか。
砂漠タイプ
昨年召天十周年を記念された北森嘉蔵氏は人生と教会との関係を大地と水との関係に喩えて教会の交わりを語った。それによると交わりには三つのタイプがあるという。その第一が砂漠タイプである。
掘っても掘っても水が出てこない砂漠の如く、教会生活を重ねても、人生という大地を潤してくれるような水に相当する真実な交わりが与えられない、それがこの砂漠タイプだ。
「行けども行けどもただ砂原」といった状況が教会を犯す時、教会は生命を失う。兄弟姉妹と言いつつ、赤の他人にすぎない時、教会の交わりは形骸化する。
「いのちなき砂の悲しさよさらさらと握れば指の間より落つ」 (石川啄木)
教会の砂漠化を避けたい。
湿地帯タイプ
湿地帯というのは水が過剰になった場合に生ずる。始終ベタベタくっついていなければ不安というのでは教会生活を不健全にする。 米国の社会学者が日本人を評し、「Intimate but not personal」(親密だが、人格的関係にない)と鋭い指摘をなしていた。
湿度の高い梅雨時に食物が腐るように、余りに過剰な交わりは、腐敗を招く。
「友人の家に足を運ぶのはまれにせよ/飽きられ、嫌われることのないように。」(箴言25章17節)これは湿地帯タイプの交わりに対する警告でもある。
地下水タイプ
これは普段は淡々としているが、いざという時には真実の兄弟姉妹の交わりが噴き出しているといった姿をさす。
古来「君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ」(荘子)と言われる。これは認められてよい。しかしいつまでも淡々としているのではない。
こんなはずではなかったいう時に、地下水の如き交わりが急場を救う。
「友の振りをする友もあり/兄弟よりも愛し、親密になる人もある。」
(箴言18章24節)
荒野、枯野の如き世界にあって、地下水の如き交わりが人生を潤す。
エフェソの教会
異教、邪教に囲まれ、偶像と物欲への志向が強く人々の心を捉える中で、様々な隔ての壁をこえて一つにする主にある交わりを武器として、積極的な生き方を内外に展開していったのがエフェソ教会であった。
金権体質が人々を豊かにするどころか、対立と分裂を激化させ、人間の心を内面から蝕んでいく。
そんな人種的、階級的、経済的、文化的、宗教的、政治的な対立や分裂抗争を超えて、共に罪赦された共同体を形成することによって生命にみちた日々を重ねていき得たエフェソ教会の現実、これこそ教団の教会の姿でありたい。
新年最初の聖書日課として与えられた聖書の箇所はまさに啓示である。
主イエス・キリストの十字架によって二つのものが一つにされ、敵意という隔ての壁が壊されていく。キリストによって両方の者が一つの霊で結ばれて、御父に近づくことができる。
「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」とある。(19節)
エフェソ2章は教会という言葉を一度も用いずに、それでいて教会とは何かということを語る。
教会は神の家族
そうなのだ。教会は神の家族なのである。
「みかみを父と/あがめまつりて/つかうる家の/そのたのしさよ」
(『讃美歌』四三四番)
家族にもトラブルも破れはあろう。しかし、感情を爆発させては、これを愛によって消しとめる訓練場、道場として教会は鍛えられ成長していく。
「幸福な家族とは問題のない家族のことではなく、問題を解決する能力を持っている家族のこと」それは家族としての教会でも全く同じであろう。
そうした解決の力はキリストとの交わりがもたらす。建築にたとえるなら、いろいろな石が積み重ねられ、その「かなめ石」コーナーストーンはキリスト・イエスご自身だと言っている。「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」
石は崩れ落ちる。しかしかしら石たるキリストによって積み上げられた石垣は崩れることはない。万一崩れたとしても、聖霊の導きによって前にも増して強固に積み重ねられる。
それ故に教会はいつでも「最早、ただ神によってのみ支えられ、キリストによって建てられている」という時が正しい在り方となるのであろう。
神の住まい
「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(22節)この19?22節は礼拝式文調で記され、実際洗礼式でうたわれたものと言われている。
キリスト者として「組み合わされ」「共に建てられ」るバプテスマ、そして聖餐へ、どんなに大きな喜びであろう。
「我は聖なる公同の教会を信ず」
教会は何より信ずるものである。教会信仰を以って「共に」という地平へ進み行こう。
(教団総会議長)
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