本紙4574号で『信徒の友』創刊四〇周年記念感謝会の報告が掲載された。二回にわたってその四〇年の歩みを概観したい。
特設委員会として定期刊行物研究委員会が発足したのは、第12教団総会期の一九六三年のことであった。当時定期刊行物としては、「基督教新報」「教会婦人」「こころの友」「働く人」「礼拝と音楽」「聖書の世界」「教会青年」等が発刊されていた。これらとの関連を視野に入れながら、信徒雑誌を月刊で刊行する準備が進められた。
これにそって信徒雑誌刊行準備委員会が組織されて、以下の確認がなされた。(1)教団の信徒の連帯性を強める。(2)教会において信徒の信仰生活に役立たせる。(3)「日毎の糧」のように、毎日の信徒の信仰生活を実用的に助ける。(4)宣教基本方策の目指しているところを内容的に推進する。(5)楽しんで読みうるもの。
発足当時の編集委員は、ぜひ信徒に委員長をとの大村勇議長の意向もあり、佐古純一郎委員長のもと、書記は小野一郎牧師、更に船本坂男、加藤常昭、倉田俊丸、佐伯洋一郎といった牧師、信徒の関屋綾子、高見澤潤子氏らがメンバーとなった。初代編集長は専任で原田洋一牧師が担った。
かくして一九六四年三月十二日、雑誌名は公募で『信徒の友』と決まり創刊四月号が本文四〇ページで発刊された。
月刊誌スタートに当たり、予算の裏付け、教団・教区レベルでの協力問題等について不安が残存していた、と「一〇年の歩み」(教団出版局編)で回顧されている。 今日でも『信徒の友』は諸教会の信徒の友係の方々ぬきには語れないが、その働きが定着した背景に、教区ごとに協力委員やモニターを委嘱したり、教区総会に編集長らを派遣して普及のために力を注いだ歴史がある。
「この雑誌に対する教団、教区の関係者の期待と協力はなみなみならぬものがあった」(前掲書)。
一九六六年四月号から三浦綾子氏による連載小説「塩狩峠」が始まる。頁数も発行部数も増え、『信徒の友』は教団にとどまらず広くキリスト教界全体に広がった。
その後、教団はいわゆる「教団紛争」に突入していく。『信徒の友』発行一〇周年にあたり佐古純一郎氏は述べている。
「教団の混乱を思うとき、『信徒の友』がなかったら信徒の不安はもっと深刻であったろうと考えられます。……もう少し時機がおくれていたらとうてい『信徒の友』の創刊などということは教団では不可能ではなかったろうかということです。そこにも、不可思議な摂理の働いていたことを私はほとんど信じて疑わないのです」(『信徒の友』七四年四月号)。
教団内でいろいろな対立する立場が渦巻く中で『信徒の友』もその歩みを続けることとなった。
(『信徒の友』編集長・古屋治雄)