ルカによる福音書 12章22~34節
小さな群れよ、恐れるな 芦名弘道
・最も良くご存じなのは主ご自身
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(12・32)。
この言葉を最初に聞いたのは、全世界でたった十二人、ルカの報告によって広く捉えても七二人の主の弟子たちです。一握りとも言えない無きに等しいこの群れに、「恐れるな」と主は言われました。
私たちも微少な群れです。将来への言い知れない不安は心を去りません。その不安を育てている根は、私たちの中にある恐れであることに、この主のお言葉の前に立って改めて気づかせられました。
教会の今後を憂い悩む心の奥底には、このままでは教会が消えてなくなるのではないかという恐れが常にあります。現実を打開しようと提示される知恵に富む方策も、力を込めた叱咤も、ついには虚空に吸い込まれるように消え失せてしまうのは、すべてがこの恐れから出ているからです。
その私たちに主は「小さな群れよ」と率直に呼びかけられます。小ささゆえの恐れ、焦りと無力のすべてを知り尽くしておられるのです。
ともすると今の教会の現実を一人で背負い込み、何もかも分かっているような顔をしがちな私たちですが、最も良くご存じなのは主ご自身です。
ですから「恐れるな」というのは、恐れてはならないということではありません。「恐れなくていい。何も心配はいらない」と、恐れおののく私たちの傍らで親しく語りかけてくださっているのです。それは、私たちが未だ見ぬ教会の将来を、主がすでに見ておられるからです。
・神の手の中にある教会の将来
主は、教会に明日を備えられるのは神であることを二二節以下の野の花空の鳥の譬えで示しておられます。大切なのは「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」(12・24)。「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」(12・28)。草や鳥と私たちの価値の比較ではありません。神にとって私たちがどんなにかけがえのない存在であるかということです。
この世の常識で測ればあってなきがごとき私たちが、神の前ではどんなにかけがえのない価値を持って立てられているか、どんなに深い配慮の中におかれていることか。主は一羽の鳥、一輪の花の姿を通して明らかにしておられます。
モーセは神の民が聖であるゆえんをこう語っています。「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛ゆえに…救い出されたのである」(申命記7・6~8)。
すごい言葉です。まことに貧弱な私たちに神は心引かれ、御自身の宝としてくださったと言うのです。
人はかけがえのない宝を守るためなら、ありとあらゆることをします。失ってしまうようなことがあったら、必死になって取り戻すでしょう。私たちは、神にとって、まさにそういう宝なのです。
常識の物差しで測っているうちは、教会の真の価値も、宿している力も知ることはできません。この宝のためならばどんなことでもするという確固とした意志を持って、無から有を呼び出される神(ローマ4・17、口語訳)が、小さな群れのただ中に立っておられます。
主は、その神の手の中に
ある教会の将来をはっきり
見て、「恐れるな」と言われました。そして、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と言われます。
神の国(神の支配)はすでに始まっています。主は「時は満ちた、神の国は近づいた」と言われました。
しかし、そう言われて万人が頷くような仕方で始まっているのではありません。
隠されています。
その神の国をくださるというのは、明らかにしてくださるということです。覆いを取り去って、見させてくださるというのです。
・教会の明日は神が備えてくださる
私がおります近永教会でこんなことがありました。当時教会員は数人の老いた女性と飛び抜けて若い男性一人。彼は内心思っていました。姉妹方を天に送ったら教会を畳む後始末をするのが自分の使命。その後は毎週山を降って町の教会に一人通うのだ、と。
それから四〇余年、予想は裏切られました。教会は立ち続けています。しかもその頃より幾分か大きくなって。
彼は今の近永教会の姿をあの頃は想像することもできなかったと言って、こう語ります。「もし今教会に必要なことがあるとすれば、維持拡大の妙案ではなく、真実に礼拝を守り御言葉に聞き従って生きるなら、神は必ず教会に明日を備えてくださるという確信ではないか」と。
「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(12・25)。どんな方法を用いても自分の寿命をわずかでも延ばすことは全く不可能であるように、もし教会に寿命があるとすれば、それをわずかでも先に延ばすことは私たちにはできません。できるのはただ神のみです。この事実を率直に認めるとき、教会がこの地上に、歴史のただ中に時を刻んで立ち続けている現実は神のみ業であって、人為ではないことを私たちは知ることができます。
教会の明日を、教会自身が保証することはできません。教会の一日、一日は、神の国の力の現れです。神の支配がそこから明け初めている曙の中に、私たちは確かに立っているのです。教会の明日、それは神の国です。
私たちがすべきことは、その神の国を待ち望んで、今日の使命に力を尽くすことです。教会の明日は神が備えてくださる、そのことに思い悩みを全部預けて、教会の今日を真剣に生きていかなければなりません。それだけが、いつも私たちの課題です。
どんなに説得力のある方策も、確かに思える見通しも、それが教会に明日が無くなるかもしれないという恐れから生まれている限り、すべて無力です。かつて、全世界を前にしては全く無力な弟子たちの群れに、主がおっしゃったこの言葉に、無条件でアーメンと告白するときにこそ、教会は本当に確かな明日の幻を得ることができるのです。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。
(近永教会牧師)