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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4630号】メッセージ

2007年7月7日

詩編62編1~9節、使徒言行録3章13~21節

神の前での沈黙 勇 文人

・ダビデの沈黙

語ることにおいて優れた才能を持っていながら、雄弁であることを捨てた男がいます。人並みはずれた才能を持ちながら、自らの無力さを思い知っていた男がいます。イスラエルの第二代目の王ダビデ。彼はたぐいまれな能力を持っていました。ダビデに出会ったサウルの従者がダビデのことをこう評しているほどです。「竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良い」。そんな秀でた才能を持ちながら、ダビデは自分には何の希望も見いだしません。ダビデはただ神だけに信頼を寄せ歌います。
「神にわたしの救いはある」「神こそわたしの救い」と、神だけに頼って歌います。他の何者でもなく、ただ神だけが、神こそがです。だからダビデは救いの源である神に向かうのです。
神に向かうときに、沈黙します。人を引き付ける言葉を持っているにもかかわらず、沈黙して神に向かいます。神に向かうときにどんな巧みな言葉もいらないというのです。
「沈黙は金、雄弁は銀」という諺があります。「沈黙の方が雄弁よりも説得力がある。口をきかぬが最上の分別」と辞書には説明されています。
この諺のように沈黙がかえって雄弁だということは、実に多く耳にすることですし、聖書でも語られています。ダビデも詩編19編で言葉を持たない天が、神の栄光を雄弁に語ると歌います。
ある説教者はダビデの62編と19編の二つの歌を取り上げて説きます。
「沈黙! 沈黙! われらは沈黙のキリスト者でありたい。闇夜の星は沈黙してまばたく。だがその輝きは千言万語にまさって、宇宙の宏大と自然の悠久とを雄弁に語っているではないか。多弁であって生活のないキリスト者は、まことに星の前に恥ずべきだ」
ダビデは、この62編で、神の御前で黙っていることでかえって雄弁になると、そんな分別を歌っているのでしょうか。

・雄弁な沈黙ではなく

神の前に立つときに、雄弁に物語るために沈黙する必要もないのです。すべてを神にゆだねきるのです。
この世がどんなに騒ぎ立っても神は神であり続けます。自分をめぐる状況がどんなに暗く険しいものでも、神は岩であり砦の塔であり続けて下さるのです。
ダビデは実に多くの敵に囲まれていました。イスラエルを脅かす外敵との戦い、そして、身内からもダビデに弓を引く者が現れる。文字通り内憂外患の日々を送り続けるのです。その敵との戦いに身も心もすり減らし、精根尽き果てていました。
しかしダビデはどんな苦難に襲われても、その苦難によって信仰を揺るがすような事態になっても、神の前に沈黙して立ち続けるのです。この忍耐はどこから来るのでしょうか。
今回の能登半島地震において、地震に遭った人々は当初から寡黙でした。「もっと語れ!」、「もっと早く情報を流せ!」などと言われながらも、意外なほどに寡黙を貫いています。それはなぜなのでしょうか。地域性なのでしょうか、それとも、想像を超えた地震の被害に圧倒されたからでしょうか。

・イスラエルの背信

「神こそわたしの救い」とダビデは言います。「神にわたしの救いはある」「わたしの救いは神にかかっている」繰り返し繰り返しダビデは言うのです。
救いは、自分自身の内にはどこにもないのです。どこからも見つけだすことは出来ません。したがって自らを救うことは出来ないのです。救いは地上のどこから来るのでも、人間の誰かが持ってくるものでもありません。救いはただ神から来る、神のみが救いだ、そう確信します、だから沈黙することができるのです。
世は移り、人は変わります。しかし、永遠に変わらないお方を信じるときにこそ、私たちは揺らぐことのない基礎を与えられます。だから沈黙できるのです。
「神にのみ、わたしは希望をおいている」とダビデは言います。神が救いだ、ということは、神は望みだ、ということです。
神はアブラハムやモーセとの契約を破棄されることはありません。この確信にダビデは立ちます。この希望にイスラエルの民は立つように勧めます。
しかし、イスラエルの民は立ち続けられませんでした。「神こそわたしの救い」であるにもかかわらず、神を拒みます。救い主イエス・キリストを拒み、十字架へと引き渡します。
「神こそわたしの救い」「神にわたしの救いがある」「わたしの救いは神にかかっている」はずなのに。神を信頼できずに神の前に立つことを拒みます。異邦人ピラトでさえも釈放しようとしていたのに、救い主を拒み、「バラバを救え」と叫びます。神の子イエス・キリストを十字架につけて殺すのです。

・神の名に立つ

しかし神は、イスラエルが拒んだ主イエスに栄光をお与えになり、よみがえらせるのです。それは救い主の受難が救いをもたらすためであったからです。
「だから」と使徒ペトロは訴えるのです。「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」。
あの美しの門に座り込んでいた生まれながら足が不自由だった男のように立ち帰れと言うのです。主の御名を信じる信仰によって癒されたように、あなたたちイスラエルも主の御名の前に立ち帰れと勧めます。「神は我が救い」という主の御名に立てというのです。主の御名に立つことは、「神こそ我が救い」だと言うことです。
それは、「主のもとから慰めの時が訪れ」るからです。ここで「慰め」と訳されている言葉は、聖書のもとの言葉では「息をつくこと」「息つくひま」とも訳せる言葉です。
主の御前に立つときに息がつけるのです。地上での戦いや苦難といったあらゆる煩いから解放される真実の平安の時です。主の御前から真実の休息が与えられて息をつくのです。そして主の御前で息をつきながら、主が救いを完成される時を待つのです。万物新しくなるその時を待つのです。
神の御前に立つときに、私たちは平安でいられます。慰めに満たされます。その時に、私たちは自らを装う必要も、ふさわしくない自分を弁解する言葉を探し出す必要もありません。 これまで私たちを苦しめてきた罪に、もがきあえぐ必要はないのです。沈黙してただ神に向かうのです。神の御前に立つ私たちは全く揺らぐことはありません。神だけが頼みであり、神のもとに救いがあるからです。だから、私たちは神の御前で、心のすべてを神に注ぎだせばよいのです。
(若草教会牧師)

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