【4573号】メッセージ

マルコによる福音書 八章三一~三八節

手をかけさせない神 古屋博規

イースターを前にしたレントの季節を迎えました。私たちは今、悔い改めと和解とを得て、共に聖餐に与るために、信仰への入門・再入門に備え、全ての者が原点に向き合うように導かれています。古代教会の人々は、四〇日間の修練(レント)の期間に、悔い改め・断食・祈りをもってこの時を迎えたと言われます。

執り成し

「人生は失敗と見ゆる処にて成功する。私が成ろうと熱望したのに成り得なかったそのことが私を慰める」(ロバート・ブラウニング)。この詩は、物事は成功だけでは判断できないことを教えてくれます。愛せる者を愛するということは簡単ですが、愛せない者を愛するという難しさを問われていることにも通じるような気がします。人間の営みの中に起こってくる様々な人間の振る舞いにも、神様は私たちと共にいまし、イエスの執り成される業を通して、私たちを原点に立ち返らせて下さることを覚えます。

手をかけさせない神

H・ナウエンは「傷ついた癒し人」の中で、「イエスは、健康と解放と新しい生への道を開くために、自分の身体を引き裂いて与えることにより、この物語に新しい豊かさをも与えられた」と言います。私たちに降りかかってくる、疎外・離別・孤立・孤独という、人間の傷のなかで最も苦痛なものが、驚くことに自らを傷つけている場合があります。この自分の痛みや苦痛が受け入れられ理解されたなら、自己否定はもはや不必要となるのですが、主イエスの受難と、復活の告知がもたらしたペトロの信仰をみてみますと、「あなたは、メシアです」(二九節)というペトロの姿勢が出て来ます。「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」(ローマ一〇章一〇節)と言われるとおり、確かに、ペトロは主イエスをキリストと告白しました。ところが、主イエスが、人の子の受難をしめすことで、ペトロの思いはがらりと変化します。せっかくイエスを主と告白しつつも、舌の根も乾かないうちにイエスを脇へと引き寄せてしまう様が伺えます。そんな変わりやすい、移ろいやすい人間であるにもかかわらず、顧みて下さる方がいるのです。「そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは」(詩編八編五節)
「それからイエスは、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ八章三一節)と弟子たちに教え始められると、ペトロは、イエスを、自分の方に引き寄せ、疎外されているかのように痛みを示して否定の意志を示します。彼は、イエスはキリストと告白したものの、キリストの栄光の場面だけを考えて受難を望まなかったのです。それにも増して、ペトロは、イエスの教えに反抗して自己主張をしました。イエスの受難は、イエスとペトロの間の私的な事柄ではなく、すべての人に関わる公的な重要問題です。神の御心に敵対し、神の計画から人を誘惑に誘い、苦しめ、殺そうとしているペトロを、イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(三三節)と指摘して、ペトロに手をかけさせようとはしませんでした。

だからこそ

キリストに従うということは、生涯、イエスは主である、と告白し続ける事であります。イエスは、「わたしに従いなさい」(三四節)と、イエスに従うよう繰り返されます。自分が捨てられますか?と問われたなら、それは、禁欲主義的な否定ではなく、自己執着、自己信頼、自己追求などの自己目的化する思いを越えて、神に聴き、尊び、求め仕えることを積極的に目指すことだと言えるでしょう。私たちは、人には言えない苦悩や、弱さ、不完全さを持っています。それ故、自分は誤った生き方をしてはならない存在であると意識してしまいます。だからこそ、自分の十字架を背負って、キリストに従うためにあらゆる犠牲をもいとわないで、自分を捨てよと、イエスは自己中心性を厳しく否定されます。手をかけさせないとは、神の思いを越えないで、人の思いにとらわれないことです。それは、本当に、なかなか出来ることではなく、自分を愛するが故に難しい時が多々あります。
キェルケゴールは「死に至る病」の中で、死そのものが絶望ではなく、自分ではどうすることも出来ない淵に、陥ってしまうことが絶望だと言いました。絶望する時、自分を否定することが起こります。自分が自分であることがいやになり、ついには自殺までへと追い込まれ、人は手をかけてしまうのです。自分をもっと大きくしよう、自分を前に出そうと、他人を押しのけ、自分が絶望していることにも気がつかないで、自分自身の中で絶望に至ってしまいます。ペトロは、自分や周りに無関心となり、イエスを引き寄せ自分を大きく見せようとしたのです。主イエスは、そんなペトロにしっかりと向き合い「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(三四節)と応えておられます。「自分の十字架を背負う」と言うことは、自分の中にある醜さやいたらなさ、弱さ、欠け、破れを恥ずかしいことと思わないで、それを表に出して、ある時にはそのことを誇りにしながら歩いて行くことだと思います。神さまから与えられた現実から、逃げることなく、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇って」(Ⅱコリント一二章九節)歩くことだということです。

にもかかわらず

先日の教師研修会の折り、年輩の先生方が、ご自分の伝道牧会のあしあとを振り返り、「あと○○年したら退かせていただきたい」と、後進の者たちに伝えておられました。無牧化しつつある地方教会の宣教、絶望しそうになる牧師の抱えている宣教のフィールド、都会のドーナツ化現象、これらの課題にどう向きあったら良いのでしょうか。実は、主イエスが弟子であるペトロに語りかけたことは、現代の宣教を担って行こうとする牧者への語りかけの様にも聞こえます。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(三四節)というイエスの言葉に、実際の私たちの現実は、従いきれず、手をかけようと自分に執着してしまう姿を隠せません。にもかかわらず、主は、私に向かって振り返り、手をかけさせまいと、「振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われ」(三三節)イエス・キリストの十字架のもとへと、私を引き戻して下さるのです。
(小石川白山教会牧師)

 

【4572号】お知らせ

★宣教師公募
任地=カナダ・フレザーバレー日系人教会                                                       /任期=2005年6月から3年間                                                              /条件=ハーフタイム(週20時間)                                                          /応募締切=3月10日/面接=3月18日                                                        /その他=英語力要詳細は世界宣教協力委員会にお問い合わせ下さい(TEL03―3203―0544)。

★神学校新卒者エキュメニズム研修会
時=3月7日(月)10時~16時半                                                          /所=AVACOおよび日本キリスト教会館(東京都新宿区西早稲田)                                            /講演(「グローバル化時代とエキュメニズム」植田仁太郎氏)、その他                                             /対象=2004年度神学校卒業予定者、教団教師検定試験CⅢ受験生および合格後一年以内の者                                 /要申込み・締切=2月末日                                                                      /主催・問合せ=NCC教育部                                                                      /TEL・FAX03―3203―0731                                                                 /E-mail(nccj-education@cello.ocn.ne.jp)

★映画「風の舞」~闇を拓く光の詩~、ビデオ(59分)化される
ハンセン病を病んだ過酷な闇の中で、生きることの意味を問い続けてきた詩人・塔和子のドキュメンタリー映画。監督・宮崎信恵、朗読・吉永小百合                                                                   /価格=六万円(送料別途)                                                               /販売=共同映画株式会社、TEL03―3463―8245、FAX03―3476―3757                                                  /問合せ=社団法人好善社 TEL03―3712―3845

【4572号】人ひととき 堀江悦男さん

恵まれた道を行く隻腕の設計技師

不慮の事故で利き腕を失って三〇年余り。人に知れない労苦も当然あろうが、「大きな障害や問題もなく、ただ恵まれた道を一所懸命に歩んできた」と、隻腕の設計技師堀江悦男さんは振り返る。
幼い頃、絵描きになるのが夢だった。しかし、周囲の人々の助言もあり、より現実的で絵描きの賜物も活かせる建築設計技師への道を選んだ。画家への夢と賜物は、創造的なデザイン・設計に存分に生かされ、やがて大きな建築設計を担当する機会が巡ってきた。
さらなるステップへのチャンスと、打ち込むのが当然だった。積み重なった過労は、いつしか限界を超えていた。朝の出勤時、駅のホームに立ちながら意識を失い、線路に転落した。ちょうど電車が入線してきたが、たまたま体が線路の間に入り、九死に一生を得た。ただ、命と引き替えに、大事な利き腕を失った。設計技師としては致命的だ。希望から絶望への転落となってもおかしくない事故だった。
残された腕の訓練のために、なぜか聖書を書き写していた。この転落事故は、自分が築いた虚構の価値からの転落とも受け止めた。一年後、事故以来初めての出社の帰り、なぜか教会に足が向いた。幼い頃通った教会だった。命が再び与えられた感謝を、誰に述べればよいのか。不確かだったが神への祈りをしていた。
建築関係の仕事はシビアな取引も多い。ルーズさへの誘惑もある。しかし、神の真実の前に生かれているかぎり、いつも愚直に信実であろうと努めている。とくに住宅の設計には、個人の具体的な生活に立ち入ることにもなる。そこで新しい生活が築かれることを思うと、家庭のあり方、生き方も問われる。
悦男という名は、子供の顔を見ずに応召した父が残してくれた。「いつも喜んでいなさい。どんなことにも感謝しなさい」。の言葉をどんな状況でも言えるように生きたいと願っている。

【4572号】ボランティア活動報告 西東京

第34回教団総会の折に、関東教区から「新潟県中越地震被災支援センター」を立ち上げたので、各教区に献金とボランティアの協力の要請がありました。西東京教区では、関東教区からの協力の要請をそのまま教区内の諸教会に伝えました。
しかしその後間もなく、「西東京でまとまってボランティアを派遣した方がより実際的な協力ができるのではないか」という意見がだされ、「新潟県中越地震被災支援委員会」を教区内に作り具体的な検討に入りました。
東京教区西支区時代のことになりますが、阪神・淡路大地震の時に、二ヶ月近くボランティアを送ったことがあり、その当時参加した人々からも意見を聞き、関東教区及び十日町教会とも連絡を取りつつ計画を進め、十一月の第二週から十二月十一日までの四週間、十日町教会のボランティアセンターにウィークデイを中心に派遣することになりました。
教区諸教会に呼びかたところ、教職・信徒合わせて十五名が応募してくださり、またボランティアを支えるための献金もたくさんの教会や信徒の方々から献げられました。
奉仕の活動は毎日必要とされることを行なうので一様ではなく、他のボランティアの方々と一緒にいろいろなことを行いましたが、この奉仕を通じて、現地の方々と一緒に奉仕することができたこと、他教区からのボランティアとの共同作業ができたこと、時には他の宗教団体と一緒に作業する機会もあり、それらはみな貴重な出会いの経験ともなりました。
十日町教会の新井純牧師ご夫妻を初め十日町教会の方々は、牧師館が被災したにも関わらず、ボランティア受入のためにいろいろとご配慮してくださいました。
また、ボランティア受入のコーディネーターとして献身的に奉仕してくださった北畠友武・千原創両牧師のお働きでスムーズに奉仕することができました。この場を借りて感謝したいと思います。
(吉岡光人報)

【4572号】牧師のパートナー

健やかな時も病める時も
中条 鈴枝
(盛岡市・内丸教会員)

「みちのくは花盛りなり、君ら得て」と奥羽教区に温かく迎えられた。故浅野順一先生のご紹介でチリ地震津波後の港町大船渡で、開拓伝道に勤しむ牧師に嫁いだ。
故荒井源三郎先生は、「地方の伝道は台所教会、家内工業である。九九パーセントは夫人の力による。しかし牧師の一を加えて百パーセントになることを」。中山年道先生からは、「牧師夫人程、悪魔になるか、天使になるかの選択を日々求められる人はない」と大先輩の伝道者から頂いた心構えを胸に秘めて。
開拓伝道の幻を共にして、新居は礼拝堂であり、集会室であった。教会学校の生徒は溢れ、若者達は深夜まで、人生、神を語った。伝道所が生まれた事を知った人々が、牧師を訪ね、出入の多い日々を送った。
「二匹の魚と五つのパン」の奇蹟、スリルに満ちて、オサンドンに専心した。いろいろな補いの必要から英語塾にも力を注いだ。土地購入、会堂建築へと、プライバシーが限られる激しい生活、チャレンジングな営みが続いた。パイオニアの精神に鼓舞された若者達との出会いは、「あなた達の勲章よ」と煽てられて、その気になっていた。
しかし、十年の開拓伝道に疲れて、北東北、盛岡に移り、百年余の歴史ある内丸教会に招聘された。十二部屋もある文化財的西洋館、ネズミやゴキブリが走る空室は、勿体ないと、青年達を受け入れ、共同生活が始った。下宿人と共に思春期の一人息子も、豊かに伸びやかに育てられた。この結果に、神様のユーモアに驚いている。
羊飼いの食卓では、朝拝が守られ学生寮さながらの寮母の台所牧会、活気に満ちていた。地域の人々と共に用いられ民生委員も務めつつ、韓国の方の日本帰化手続きをお手伝いしながら、隣国、アジアへの関心、愛に目覚めさせて頂いた。牧師館のお客様と語らい、静聴しながら、お茶を供し、お宿もした。「急須」の役割が果たせるように願いながら。
主人の胃癌手術、続いて私の心筋梗塞で、相前後して医師に身を委ねて、一九九八年、隠退生活に入った。
奇跡的に病癒され、中条は、乞われてタイのハンセン病コロニーの職員に、ボランティアとして、日本語を教えに赴いた。私は、冠動脈バイパス再手術、大動脈弁置換術を二〇〇三年に受け、肺サルコイドーシスの治療も継続中である。
中条は「バンコク日本語キリスト教会・BJCC」に招かれ、二〇〇四年三月、彼の地で働くことになった。単身赴任である。おしどり夫婦には想像されない出来事であった。
隠退後、天使のような盛岡、教会の方々に囲まれて、独居の冬籠りを大切にしている。
毎朝九時、現地時間七時に、「ブーブー」「ブーブーブー」と無声のラブコールも楽しい。今日も、この生命用いられる感謝、世界の友にアンテナを高くし、連絡事務所の忙しさである。そして、絶えざる伝道への切なる祈りの内に、春を待つこの頃である。
『大夕焼け 窓いっぱいに 古希を越ゆ』 鈴枝

 

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