【4771号】宣教師からの声 番外編

遺愛は2011年1月に創基137周年を迎えた北海道で最も長い伝統をもつ女子中学高校である。
創基に関わったM・C・ハリス夫妻が米国メソジスト監督教会から伝道のために日本に派遣され、函館に到着したのが1874年1月26日であった。ハリス夫人はすぐに子女を集め『日々学校』を始め、英語や聖書、裁縫、作法などを教えた。最初の生徒は5人であったが、ハリス夫人にとってはこの5人の生徒を得たことは生涯忘れることのできない歓びの一つだった。
『日々学校』の生徒たちは、その後、M・C・ハリスの開いた私塾『愛育学校』で学んだ。ハリス夫人は平常教育は行っていたものの不十分と考え、寮つきの正式な女学校を作りたいと願い、祈り、アメリカメソジスト監督教会の婦人外国宣教協会(WFMS)の『Heathen Woman’s Friend』という機関誌に寄稿した。
その文章が当時、愛娘を病気で失い悲しみのなかにあったカロライン・ライト夫人の心を動かした。夫人はドイツ駐在アメリカ公使夫人としてドイツに住んでいたが、アメリカに残してきた子どもの1人が重病になり、危篤の知らせを受けた。驚いた夫人はせめて、1日でも看病したいと祈りつつ帰国した。病床にあった娘も、母に一目会いたいと祈っていた。この祈りがかなえられ数日看病することができ、母の手のなかで感謝しつつ召された。
ライト夫人は主の深い恩寵に応えるために、何か奉仕をしたいと考えていた時に、ハリス夫人の一文を読み、娘と同じ年齢で教育を受けられないでいる異国の少女のために尽くすことこそ、その使命であると考えた。それまで蓄えていた愛娘のための教育資金と編み物や刺繍をおこない教会バザーで販売した益金、信仰の友への呼びかけで集まった献金をあわせて1800ドルを、函館の女子教育のために献げた。
1878年10月教育宣教師としてプリーストが函館に派遣された。1879年12名の生徒で学校を開設するが、同年12月6日の大火で教会と校舎が焼失した。プリーストは自分の寝室で授業を継続したが、大火のショックが大きかったのだろうか、健康をそこない1880年春に帰国した。
しかしついに祈りがかなえられ、1882年2月1日に文部省認可の女学校「カロライン・ライト・メモリアルスクール」が設立された。初代の校長はウッズワースであった。最初の入学生は6名であったが、9月には寄宿生16名と数人の通学生を数えるようになった。
当初、学校名は『カロライン・ライト・メモリアル・スクール』だったが、当時は横文字が受け入れられにくく生徒が集まらないので開校3年目に、『遺愛女学校』と校名変更をした。
初代校長のウッズワースが結婚のために1年で日本を離れたため、代わりに第2代校長にハンプトンが就任した。ハンプトンは在校生にとっては優しく包み込む母親のような存在であったが、校長になった当時、学校の整備に生徒募集に相当苦労をした。函館の一般家庭を回ったり、弘前にも出かけていった。とても忙しく、助け手をアメリカに求めたところ、1883年にハミスファー宣教師(医師でもあった)が派遣された。ハミスファーは北海道で最初の女医であり、朝6時から函館の人々のために診療をし、合間に遺愛の生徒に教え、函館師範学校でも毎日1時間英語を教えた。1887年にはハンプトンの努力のかいもあり、生徒数は94名になった。この年、ヒューエットが第3代校長となり、ハンプトンは一時帰米するが、1888年に再来日し弘前遺愛女学校に赴任するが、また遺愛に復帰する。その後、第4代校長デカルソンを助けながら、現在のキャンパス、遺愛の校舎および元町幼稚園の整備に貢献し、34年間、遺愛の教育に身を捧げた。
遺愛の教育の基盤をつくり、奉仕の伝統をつくったのは第4代校長のオーガスタ・デカルソンと言っていいであろう。デカルソンは1890年(明治23年)に校長に就任し、1891年予備科、翌年に小学校をつくり、1895年に幼稚園を併設した。また弘前に姉妹校の「来徳女学校」ができ、出張し指導にあたっていた。遺愛では35年間校長職を務め、『信仰・犠牲・奉仕』を遺愛の校訓として位置づけたのはデカルソンであった。デカルソンは寮生を中心に王女会を組織し、教会の日曜学校を手助けするとともに、貧民救済、病人慰問、幼児教育のために生徒とともに奉仕をしていた。
1918年には、草花をもって病院訪問、編み物、袋物、刺繍細工などで得たお金をロシア革命の混乱のなかにあったシベリアの子供のために送金していた。1923年の関東大震災にあたっては、教職員・生徒の働きで衣類・肌着などを製作・寄贈し、献金を送り、また1925年には朝鮮半島の水害に衣類と附属品を送っていた。
デカルソンについては、函館盲学校・聾学校との関わりについて注目される。函館盲学校・聾学校の前身である訓盲院は1895年にメソジスト教会のシャーロッテ・ピンクニー・ドレーパーが設立したが、デカルソンは設立当初より財政的な支援、授業も担当し、訓盲院を支えた。一時期は遺愛がその経営母体になった時期があり、遺愛の卒業生が教師になっていた。
現在、卒業生を2万3591人輩出しているが、『信仰・犠牲・奉仕』を身をもって示した初期の宣教師達の精神が、今も確かに継承されている。
-Kyodan Newsletterより-


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