一粒の麦として-辺境の地に女子教育の種を蒔き、育てた宣教師たち-
木村いくみ(学校法人北星学園企画課)
北星学園はSarah C.Smithが創設し教育の基盤を築き、後継者Alice M.Monkの学校改革により発展をみた。さらに、Elizabeth M.Evansが戦後の新体制を牽引し、今日の北星学園が導かれた。3人の宣教師は自らのすべてを北星学園のために注いだ宣教師として、本学園の記憶に留められる。
Sarah C.Smith
北星学園は、東京以北最大の都市と呼ばれる北海道札幌市にある。Sarah C.Smithは1880年に東京に赴任したが、来日3年後に気候が合わず病にかかり、故郷によく似た気候の札幌に転地した。数ヵ月後に健康を回復したスミスは、そのまま札幌で宣教活動を続けることを決意し、伝道協会に決意と学校設立についての理解と協力を求めたが、当時の札幌は開拓途上にあり、低文化の女子教育後進地であったため、伝道協会はこの事業を「実現不可能」と判断し活動を許可しなかった。それゆえスミスは、止むを得ず北海道の先進地であった函館に留まり、宣教活動の傍ら機会を待った。
1886年12月、北海道尋常師範学校の英語教師に招聘されたのをチャンスと見て札幌に移転し、地元の有力な官・財・学界人の支持を得て、伝道協会の許可を得ないまま1887年に女学校を開学した。このため、伝道協会からの開学資金援助を得られず、開学後の約2年間は全く彼女個人の事業であった。しかしその後、伝道協会はスミスの固い決心を認め、1888年8月、校舎増築のための資金援助をした。また、1889年にスミスは一時帰国し、伝道協会の理解を得て漸く学校の運営資金を得ることに成功したのである。
1894年、スミス女学校は「北星女学校」と改名した。“Shine like stars in a dark world”「世にあって星のように輝く」(聖句:フィリピの信徒への手紙2・15)が、「北星」の由来である。
スミスは女学校の創業と教育実践を通して、自らは欠乏に耐えつつなお人に奉仕する生き方を生徒に示し、生活をともにする人格的交わりを通して生徒に圧倒的な感化を与えた。「実現不可能」との予測を覆し、様々な困難にも屈せず、学校の基礎を固めたのである。
スミスは、1931年、80歳のとき、辺境の地で女子教育に先鞭をつけ、キリスト教の宣教と地域文化、教養、道徳の向上に労した50年間の歩みに終止符を打ち、帰国した。帰国にあたり、日本最後の礼拝の席上で読み上げた聖句「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」(ローマ人への手紙15・3)に、スミスの生き方の全てが凝縮されている。
Alice M.Monk
開校後約20年近い労苦を重ねたスミスは、宣教師の不足に悩み、信頼に足るべき後継者を望んでいた。1905年11月人望も極めて厚い教育者アリス・M・モンクが、東京の女子学院の引き止め運動にも係らず、条件の悪い北星女学校に着任したのは、来日1年後、33歳のときであった。着任後、モンクは、一層教育内容を整備し学校形態を拡充することに努めた。1915年に校長に就任し、懸案となっていた北星女学校の文部省認可の取得、1924年に新校地を確保した。1926年に寄宿舎、宣教師館を竣工し、1929年には木造3階建てのモダンな新校舎を竣工した。現在、校地は北星学園女子中学高等学校に受け継がれ、1989年に開学100周年を記念し復元された宣教師館は、1998年に国の「登録有形文化財」に指定されている。
モンクは、残る生涯の全てを「北星」に献げるべく、札幌に永眠の場所を定めていた。しかし時代は、モンクの思いを打ち砕き、1941年8月15日に、モンクをはじめアメリカ人教師たちは帰国勧告を受け札幌を離れた。母国にたどり着いたモンクは、そのまま倒れて長い病床生活の後、1952年ワシントンで天に召され、再び札幌に戻ることはなかった。
Elizabeth M.Evans
エリザベス M.エヴァンズは1911年10月、25歳のとき、北星女学校に教師として着任した。モンクに遅れること6年後の着任であったが、スミスとモンクという輝かしい先駆者の中にあって、エヴァンズの功績は目立たない。しかし、エヴァンズが着任した頃、スミスの体調は思わしくなく、学校の管理はモンクに委ねられており、スミスの教育精神を受け継いで生徒への直接的な指導を助けたのはエヴァンズであった。
1941年、全ての宣教師がアメリカ本国に帰国する約2ヶ月前に一時休暇を取得してエヴァンズは帰国していたが、そのまま留まらざるを得なかった。1945年に終戦を迎え、再出発を期していた学校は、1946年に財団法人北星学園として改めて始動するものの、北星女学校は宣教師のいないミッションスクールになっていた。北星学園は、アメリカに帰国した6名の宣教師たちに復職を要請していたが、1947年に要請に応えたエヴァンズが帰ってきた。エヴァンズの重要な役目は戦争によって途切れたが、スミス、モンクの教育の精神と伝統を再現することによって、ミッションスクールとしての断絶を埋めたのである。
戦後の学校再建に寄与したエヴァンズは、女子短期大学開学に尽力し、初代学長となったが、就任して6ヶ月後の1951年9月に定年を迎えて帰国する。
1972年2月にミネアポリスで86歳の生涯を閉じたが、エヴァンズの財産は彼女の遺言によって、3分の1が北星学園に献金された。北星学園に献金された遺産は、スミス・モンク・エヴァンズ奨学金の基金となり、現在も生徒のために用いられている。