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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4763・64号】クリスマスメッセージ 光は暗闇の中で輝いている 森里信生

2012年12月22日

ヨハネによる福音書1章14節

光を消すことはできない

私たちの主イエス・キリストがお生まれになった時、世界は闇であったのであろう。権力者に翻弄され、もてあそばれた中でお生まれになった様子を私たちはルカの描くクリスマス物語に見ることが出来る。
いや、主の御降誕の時だけではない。ヨハネの福音書が書かれ、読まれた時もまた「世界は暗闇」であったのであろう。だからこそヨハネは「光は暗闇の中で輝いている」と書いている。ヨハネはイエス・キリストの中に「暗闇の中で輝いている」光を見出したのだ。この光は、一時の間だけ光っているのではない。輝き続けている。闇の力が、どれほど強くても光を消すことがない。それは、たとえ「灯心」が「暗くなってゆく」ように見えたとしても、その灯心を決して「消すことなく」(イザヤ書42・3)点し続けるキリストの光である。
この光を理解しない「暗闇」をヨハネは証言している。理解しないということは認めないということでもある。理解しないということは気づかないということでもある。光は確かに輝いている。しかし、そのことに気づかない暗闇が、確かに存在する。

嵐は吹き荒れていても

以前、京都の教会にいたとき、尋ねてくる来客を連れて行く場所があった。大徳寺の瑞峯院である。ここはキリシタン大名大友家の菩提寺で、「十字架の庭」と共に「独座庭」と呼ばれる石庭がある。荒海のようにしつらえられた白砂の庭の真ん中にどっしりとした岩が鎮座している。その庭の縁側に座ってしばしの間、黙想するのが私の習慣であった。そのとき私はヨハネによる福音書が6章16~21節で描いている「嵐に悩む弟子たちの話」を心に読み直す。嵐に悩む弟子たちの舟に主ご自身が近づいてきて下さって、「わたしだ。恐れることはない」とお語りになった。ヨハネは「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」と不思議な言葉を付け加える。主が共にいて下さるところでは、嵐は乗り越えられているのだ。ヨハネは、嵐が鎮まったとは記さない。ただ「彼らはイエスを舟に迎え入れようとした」と記すだけである。あるいは、波は荒れたままであるのかも知れない。
私たちの世界もまた闇である。しかし、その中に確かに光が輝いている。それは、すべての人を魅了する、神々しい光ではないかも知れない。「ほの暗い灯心」にも似た光、ただ見ただけでは頼りなく見える光かも知れない。しかし、この光は決して消されることなく輝き続けている。歴史を超え、思想の嵐が吹き荒れても、戦乱の中でも、天変地異の中でも、いや、死という闇のまっただ中でも光は輝いている。私たちは、この確かさに生きる。

神の栄光を見る

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。
これもまたヨハネが語るクリスマスの言葉である。ここで「栄光を見た」と語れる「栄光」とは、すべての人を照らす光としてこられた私たちの主イエス・キリストの栄光である。
「栄光を見る」という表現で思い出すのは「モーセの故事」である。モーセは神に、「どうか、あなたの栄光をお示し下さい」(出エジプト記33・18)と願った。
モーセが、山の上で神からの戒めを頂いている間、ふもとに残された民はモーセを待ちくたびれていた(同32章)。
そして民はアロンに、モーセがどうなったのか分からないので、モーセの代わりに自分たちを導く神々をつくって欲しいと訴えた。アロンは、金の子牛を鋳造し、人々は、「これこそ私たちの神々だ」と喜び、アロンは祭壇を築いて「主の祭」を行った。当然のことであるが、このことは主なる神とモーセの知るところとなる。
神は直ちにモーセに下山を命じ、モーセもまた祭の様子を見て「激しく怒り」、持っていた十戒の板2枚を叩き割ってしまった。
翌日モーセは、「おまえたちの罪のために贖いができるかも知れない」と再び主のもとに上ることを決意することになる。
そのとき主がお語りになった言葉は厳しいものであった。
「あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」。
主が共に居ようとされると、主は民を滅ぼしてしまうことになる。だから、主はイスラエルと共には居ないことにすると言われるのであるが、「主が共にいて下さらないイスラエル」は、もはやイスラエルではない。民が「嘆き悲しんだ」ことも当然のことである。
モーセは再び主のもとに上って、主に赦しを願い求めるのである。そこでモーセの「どうか、あなたの栄光をお示し下さい」という祈りが捧げられることになる。神のお答えは、こうである。
「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。
こうして34章では、再び十戒の板に戒めが刻み込まれることになる。砕かれた十戒の板は再び回復され、神の民イスラエルはイスラエルとして神と共に歩むことになった。
ここで見せられた「神の栄光」とは罪の赦し、契約の更新として具体化している。
イエス・キリストによってもたらされた「栄光」もまた「罪の赦し」に関わる。クリスマスの主、十字架の主は復活の主として、今も生きる御方として、私たちに確かな光を点し続けて下さっている。クリスマスによって、この世にもたらされた灯火は今も光を放ち続けている。
この灯火が消えることなくあり続けることこそ私たちの希望であり、慰めである。
今年もまた、この確かな「光」を、しっかりと身に受け、この灯火の確かさを証し続けていきたい。

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