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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4738・4739号】クリスマスメッセージ 主のもとに連れ帰られる

2011年12月20日

場面ごとに聖書の言葉が

神よ、わたしたちを連れ帰り
御顔の光を輝かせ
わたしたちをお救いください。(詩編80編4節)

クリスマスをどのように迎えようとするのか、今年は特別の期待を抱きながら、しかし思いが定まらないままで迫っている。震災の日から、時も心も途切れ途切れに過ごすことばかりになってきてしまった。まとまったこと、積み重ねて筋道が立っていることより断片的なところに立たせられる。突然に表れる現状の重さ、思いもよらない変化、喪失と出会い。確信より、戸惑いの中で断片の生き方を重ねながら、今日の日にたどり着いているように思う。つなぎ目や脈絡ができていることは何かに包まれていてできたことのように思う。散乱した部屋で、なくしたものと、もう前とは同じように収まらないものを抱えて立ち尽くしているようである。
しかし、あの日から、場面ごとに与えられ、支えられた聖書の言葉があった。
停電し、まったく通信が途絶えた中で、震災の二日目の夜を迎えた。ラジオの語る、すぐ近くの圧倒的な破壊と被災の異様な報告におびえ、緊急地震情報に度々外に逃げ出していた。人間の営みが打ち砕かれていた。しかし、大空は自分を取り戻したかの様な星空であった。「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」(詩編8編4・5節)。揺るぎのない天、そこにあるのは人間を顧み御心に留めてくださる神。この不安の中で人とは何ものかを問うならば、神が目を注いでいるところから、そのまなざしを向け、顧みておられるそこから始めねばならない。足元が揺るがされる中では上からのまなざしによって立つほかにない。しかし、「あなたが」そこに立たせてくださったところにやっと立つことができるのである。
3月13日の日曜日、余震の中避難してきた人々を含め礼拝を守ることができた。家族の消息もつかめないまま、長時間歩いて集まった。聖書箇所は「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。…草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ書40章1節、8節)であった。神の言葉が立っていることは慰めと切り離すことはできない。神の言葉の礼拝が慰めの基点となっている。教会と集う者が力づけられた。
翌日、わたしが訪ねた津波の被災地の一つは、驚くほど静かであった。山際まで泥が押し寄せ、針金のように曲がった線路、鉄橋の橋げたが上流にあるコンクリートの橋脚にひしゃげて巻き付いていた。川を上る津波の途方もない破壊力。それが、音のするものをなぎ払ってしまっていた。嘆きの声さえおおわれていると思うと痛ましい。嘆くこと、それは聞かれることに至る。「主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる」(詩編6編10節)。
嘆きとともに痛ましいことは、沈黙におかれることである。詩編は「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」(62編2節)と語る。しかし、そこにまでどのように心を向けることができるのだろうか。

決して小さなものではない

イザヤ書は主の僕の姿を「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(イザヤ書53章7節)と語った。
沈黙の中にかがみこみ、そのようにして嘆きを負う姿にこそ、沈黙を開き嘆きを投げかけることができるのではないか。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(同5節)。傷ついて沈黙し、かがみこんでいる姿に慰めを得ること。それは心底弱ったものを受け入れるものになる。
福島県の果樹畑はいつも見事に手入れされている。しかし、今年目にした果樹畑は異様であった。赤茶けて、アメリカシロヒトリの巣の網が延々とかかっていた。収穫ができず手入れもなされない。廃墟のような恐ろしい畑となっていた。
放射能は見えない、しかしその影響はこのように見えるものとなっている。「なぜ、東北が。なぜこの弱いところに」と繰り返し問う思いがこみあげてくる。
「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」(マタイによる福音書2章6節)。これはミカ書「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者」(5章1節)を引用してのことである。そこでは「最も小さき者」が「決して小さなものではない」に変化している。それは、ご自分を小さな者として与えられた方がそこに誕生されたからである。
「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピの信徒への手紙2章6節、7節)。小さなものが小さなものではないとされるのはご自分を無にされた方がそこにご自分を置き、お生まれになったからであった。それは小さいがゆえに目を留め、これを顧みられることが神のなされることだからである。
それゆえ、この頼りなさと心細さこそが、備えもおぼつかない中ただその方の到来を願い祈ることが、待望にふさわしいこととされているのではなかろうか。小さいものが小さいものではないといわれる。これは大きな希望である。

共におられることを貫いて

主イエスの降誕の出来事はイスラエルの歩みをつづり合わせ、今に至るまで「神は我々と共におられる」(マタイによる福音書1章23節)ことを貫いてくださることであった。断片となっているものがつづりあわされる、神はそれを一筋の光をもたらすという仕方で実現されたのである。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネによる福音書1章4節)。「光は暗闇の中で輝いている」(同5節)。それは、例年のように出来上がった備えよりも、ただ待望し祈ることが、主の待望にふさわしいと言える。今の時が厳しければそうであるほどそれは主の待望にふさわしい、光への思いが切実であることこそがクリスマスの備えにふさわしいと言えることになる。それならばわたしも自分がいつもよりも散らばった心の中で、むしろより強くはっきりと主の降誕を待ち望んでいるということができる。それゆえに心強くし、こう祈りたい。「神よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください」(詩編80編4節)。主のもとに連れ帰られること、そこにわたしたちの復興がある。クリスマスの祈りは復興への祈りとなる。
(高橋和人 仙台東六番丁教会牧師)

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