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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【5031号】イースターメッセージ 新しい命に生きる(1面)

2025年4月26日

新しい命に生きる
ローマの信徒への手紙6章3~11節

澁谷 弘祐

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。(ローマの信徒への手紙6章3〜5節)

罪が迫って苦しむ時

 復活は私たちの希望です。復活を信じることで、私は希望を得ました。その希望は私自身の命が滅ぼされる、すなわち完全に失われる恐れはなくなった上に、二度と恐れのない安心・安全な生涯を頂いたという喜びです。復活を信じることは変わりませんが、その信じた幅は変わってきたように感じています。こどもの頃は聖書に書かれた通りに信じるように勧められたままに信じ、信仰告白の際にはキリストが私のために死んでくださったことを信じ感謝し、牧師とされてからは罪が迫って苦しむ度にキリストの命が働いて私を危うい道から助け出している事実を信じ感謝しています。

 罪が迫って苦しむ時。それは自分が罪人ではないという根拠のない自覚の中で生きている最中に突然、生きてきた理由を揺さぶられた時ではないでしょうか。福音書はペトロが大祭司の庭でイエスを三度否定して鶏が鳴いた時、激しく泣いたと記しています。罪で苦しむ恐怖・その経験がなければ、何度でも人間は罪を犯しても構わないし、神が人間を愛するが故に何度も罪をゆるすに違いないと捉えるかもしれません。しかし罪は神への不信として人間の行動から生じたもので、罪の終着は死です。神が罪をゆるすのは、人間が悔い改めて神にたち返る故であり、人間を創った神との関係を回復するからです。それでも神は、この悔い改めが充分でなかったにも関わらず、人となったイエスに罪を背負わせて死なせることで、人間に対する愛を示されました。イエスが関わることで罪をゆるされたのですから、イエスは赤の他人ではなく親しい間柄なのです。

イエスの復活が我が身にも

 このことが意識されるのは洗礼の時です。イエスに向かっているつもりが、実は向こうから近づいて来られると気付いた時に、イエスとの関係の捉え方も同様に変わります。私がイエスに関わるのではなく、イエスが私に関わってくださる事実が心に沁み渡ります。そしてイエスが私を覆い、その生き方をもイエスが歩んだように整えてくださいます。イエスを信じる者はイエスによって整えられ、イエスと同じ思いとなるように、イエスの身に起きたことが我が身にも起きるように祈り願います。その結果、イエスを死者の中から復活させた神の力がイエスを信じる者にも働き、イエスと同じく復活させてくださると信じることができるようになります。

 イエスの身に起きたように復活を信じる人は、未来に訪れる自身の復活の約束によって予め死から解放されます。解放された人生・生き方が新しい命の在り様です。この新しい命に生きる時に、罪のもたらす死は問題ではなくなります。罪は死に留まり、罪のない状態として新しい命を与えられて生きているからです。それにもかかわらず罪を犯すことに無頓着であるならば、自分から死を招いていると言えるでしょう。イエスが罪のために徹底的に苦しまれて、ご自身では罪の死から逃れられなかった事実は、誰一人として罪から逃れられないことを示しています。必然の死に向かうことは、神がイエスを復活させキリストとして新しい命を得させた救いの出来事に反します。罪に留まるならば救いもないのです。ですから人の目のある表面的な姿で罪人の自覚を持つのではなく、人の目のない内面的な姿で罪人の自覚に立つことで、常に罪人の自覚を自らに問う中で、罪への無頓着による必然の死に陥らずに済みます。

キリストを身に纏って

 復活が信仰生活において決定的に大切なのは、イエスがキリストであると分かった出来事が復活であるからではないでしょうか。復活を通して私たちは信仰に3つの同一性が必要であることを知ります。

 この「同一性(同一化)」とはThe Layman's Bi-ble Commentary (邦訳:聖書講解全書、発行:日本基督教団出版局)でのKenneth.J.Foremanの言葉ですが、イエス・キリストの持つ関係性を指します。

 第1はイエス・キリストと神との同一性です。罪の誘惑を受けた人の多くが罪を犯します。イエスに対しても、神と敵対させようとする力が働きましたが、それでもイエスは誘惑に打ち勝ち、神に敵対せず従順な態度を表し続けました。人々にとって、イエスは人間の中で優れた存在であって、人間を救う存在とは受け止められませんでした。イエスはあくまで人間であり、キリストではなかったのです。イエスが十字架上で息を引き取った時、百人隊長は神の子であったと告白していますが、これは神が特別に愛した子という意味で、キリストであるという信仰告白とは異なります。しかし、イエスの側から見れば、イエスを遣わした神と常に同一性を持ちます。神の語った通りを理解し、神が語るように執り成します。神ご自身がイエスによって人々に知られることで、イエスは人間以上に既に神を知っている存在であることが分かります。こうして神とキリストは同一性を持ちます。

 第2にイエス・キリストと罪人の同一性です。イエスは徹底的に人間として生きました。その結果、罪の誘惑と対峙しました。誘惑に負けていく人々に責められながら。キリストは十字架の死に至るまで従順でした。罪の最も苦しいところを歩まれました。

 第3に罪人とイエス・キリストの同一性です。イエスをキリストとして信じた者は新しい命を得ます。十字架上で血を流すイエスを仰ぎ見て私たちの罪の贖いを知り、そのイエスが復活した姿に、私たちもイエスのように生き、復活する希望が与えられます。私たちが感じるところのイエスの愛やゆるしや励ましといった恵みの数々は、このことによっています。

 口語式文の聖餐式の感謝の祈祷に「キリストの復活の力を知り、その苦しみにあずかり、おりを得ても得なくても、みことばを宣べ伝えることができますように」とあります。弱さと無力の日々ですが、キリストを身に纏っている故に生かされている恵みを感謝して、新しい命に生きたいと願います。(久美愛教会牧師)

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