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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【5028号】新春メッセージ 神の御前で真実に(1面)

2025年1月25日

神の御前で真実に

雲然俊美

次の言葉は真実です。「私たちは、この方と共に死んだのならこの方と共に生きるようになる。耐え忍ぶならこの方と共に支配するようになる。私たちが否むならこの方も私たちを否まれる。私たちが真実でなくてもこの方は常に真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからである。」(テモテへの手紙二2・11〜13/聖書協会共同訳)

困難を耐え忍ぶ

 主の年2025年の歩みが始まりました。私たちは、日々、能登半島地震等の災害によって労苦を担っている方たちを覚えて祈っております。その生活の再建と地域の復興の道のりが険しいことを思い、その地に住む方たちと、その地に立てられている教会の困難な歩みを覚えて祈っております。

 また、長く続くウクライナやガザ地域等における戦闘の終結を心から願い、その嘆きや苦しみを覚えて、平和の実現を祈っております。

 さらに、私たちは、福音宣教の困難さの中で苦闘している教会を覚えて祈っております。教会の活動の維持はもちろんのこと、その存続の困難さに直面している苦悩を覚えて祈っております。

 そのような中で私たちは、「イエス・キリストを思い起こしなさい」(Ⅱテモテ2・8)とのみ言葉を聞きます。テモテへの手紙を記した伝道者は、「キリスト・イエスにある救いを永遠の栄光と共に得るため」(Ⅱテモテ2・10)、あらゆる困難を耐え忍んでおり、「耐え忍ぶならこの方(イエス・キリスト)と共に支配するようになる」(同2・12)と述べています。これは、今日、様々な困難の中で、うめきつつ耐え忍ぶ日々を過ごしているキリスト者とキリスト教会に向けて語られている言葉です。

キリストは常に真実

 テモテへの手紙二の2章11節から13節に記されているみ言葉は、教会の信仰告白の言葉か、あるいは、賛美歌であったのではないかと言われます。

 賛美歌であったとすれば、この手紙を書いた伝道者は、様々な困難に直面するたびに、何度もこの賛美歌を口ずさんだことと思います。そして、様々な困難によって福音宣教の働きが阻まれたり、一向に実りを見い出すことができない時に、「キリストの真実」に立ち帰り、慰めと力を与えられて立ち上がり、前進したことと思います。

 キリストの真実は、主が私たちの罪の赦しと贖いのために十字架において死なれたお姿にはっきりと示されています。主は、十字架の死において、「ご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれ」(ヨハネ13・1)ました。

 私たちの信仰の歩みは、このキリストの真実によって支えられています。私たち自身の能力や努力によって得る確かさによるものではありません。それゆえ、私たちは絶えずキリストの真実の確かさに立ち帰り、支えられて、新たな歩みを踏み出すことが必要です。

 私たちの日々の歩みの課題や、教会活動の維持の困難さの中で、私たちは何よりも、このキリストの真実によって支えられていることを覚えなければなりません。キリストの真実により頼み、応答して、様々な困難な課題に直面しながらも、その現実を直視し、忍耐をもって前に進むのです。

神の御前に真実な教会

 私たちは、自分自身が真実な者でないことを知っています。真実でありたいと願いつつも、そうできないでいるのです。「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているのです」(ローマ7・19)との嘆きは私たち自身の嘆きです。ですから、私たちの信仰は、神の御前にあって自分の真実を示すことではありません。キリストの真実により頼み、キリストの真実に応えて歩むということです。

 教会も同じです。私たちは、神の栄光を現わす教会として歩みを続けることを願っています。あるいは、世のための教会として、この世の多くの課題を共に担う歩みを続けることを願っています。しかし、今日、多くの教会が、少人数で教会活動を進めることの困難さに直面しております。牧師招聘を決断できない教勢および財政力の低下に悩んでいます。教会の合併や牧師の兼務体制への移行の検討をしています。そのような中で、今こそ教会は、キリストの真実により頼む信仰に立ち帰ることが必要です。

 昨年末、かつて大変お世話になった牧師が書かれた文章を読む機会がありました。そこに次のように書かれていました。「この教会は…(略)…会員数も決して多くはない。勿論これから量的に大教会になることも望ましいことである。しかしそれよりももっと望ましいことは神の前に真実な教会でありたいということである」(『天童教会百年史』の故櫻井重秀牧師の巻頭言より)。「神の前に真実な教会」であらんとすること、つまり、キリストの真実に支えられ、応えて歩むことこそがキリストの体なる教会の務めであるとのことを教えられた言葉でした。

とりなしの祈り

 教会には多くの欠けや破れがあり、弱さを抱えています。しかし、教会はキリストの真実に支えられ、応えて歩み続けます。教会の務めは、「どんなに小教会であっても、この国の、この社会の良心であらんとすること」(同巻頭言より)です。

日本基督教団においては、各地に立てられている教会の多くが、その地域における唯一の教会です。教団はそのような教会の伝道の灯火を消さないために、伝道のネットワークや宣教協力の働きを進めて行く務めが与えられていることを思います。

 昨年のクリスマスには、徐々にコロナ禍以前の教会活動を再開した教会が多かったのではないかと思います。私が33年兼牧している下浜教会では、コロナ禍以前のように、教会に皆が集まって祝会をもつことはしないで、牧師が会員宅に赴いて、クリスマス家庭礼拝をもちました。そうしたところ、普段教会に来ていない教会員の家族全員が出席し、クリスマスの恵みを喜び祝うことができました。そして、その家庭礼拝において、その地域に住んでいる方たちを覚えて、共にとりなしの祈りをささげることができました。

 アブラハムの切なるとりなしにより、主なる神は、10人の正しい人がいるならその町を滅ぼさないと言われました(創世記18章)。教会は、その立てられている地に住む人々を覚えて、神さまの御前にあってとりなしの祈りをささげる務めを担っています。そのようにして、神の御前に真実なキリスト者、そして、教会として、この年の歩みを進めてまいりたいと思います。
(秋田桜・下浜教会牧師)

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