先達と同じように
郡中南教会(代務)牧師 堀川 賢二
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、未だ鉄道・道路が整備されていない四国での宣教の業は、海上交通により、港を起点とされることが多いと言われる。伊予郡内での宣教の働きも例に漏れない。1926年5月1日、当時の日本協同基督教会(現・日本アライアンス教団)のT・R・フランシス宣教師と姉のミス・フランシス、大江邦治、緒方繁造両師による、港近くでの八日間に及ぶ天幕伝道から、教会の歴史は始まった。
集会期間中の5月7日、町内在住の中上悟師によって、郡中南教会が設立された。その後、ようやく1950年8月15日、教会は、信徒から献げられた122坪余りの土地に、念願の会堂・牧師館を建設した。そうして、1985年に、諸事情から現在地を取得し移転するまで、その地での歩みが続いた。
さて、天幕伝道から3年後、隣の港町である現在の伊予郡松前町(まさきちょう)に新たに教会がたてられた。松山在住のミス・フランシスは翌1930年、そこで特別伝道集会を開催し、二つの教会の協力関係が確立した。その後、1966年まで、常に郡中南、松前両教会のいずれかの牧師が他方を兼任した。そして、朝夕の礼拝を交互に行うなど、二つにして一つの教会として、伝道牧会が行われた。当時の教会の歩みとして特筆すべきは、両教会のこの協力伝道であろう。
戦後、アライアンス教団の多くの教会が教団を離脱する中、両教会は日本基督教団に留まり、現在もこの地域における教団の宣教の業を担っている。
郡中南教会が現在地に移転した後、教会員数は次第に減少し、財政的な困難も招くようになった。しかしその後も、1年の例外を除き、2016年まで定住牧師を置くことができた。これは、四国教区の互助制度の、謝儀補助によって支えられたからである。この制度は、「自立連帯献金」という信徒運動によって、60年近く支えられており、今も教区負担金を越える額が献げられる。そのことを思うと、四国の兄弟姉妹の篤い思いに驚きは隠せず、主に対する感謝の思いに満たされる。
無牧となった教会は、今、定住牧師を置くことを断念するか否かの瀬戸際に立たされている。その状況下で、分区の教会、牧師の支えを受けながら、隣の松前教会と宣教協力の体制に至った。前述のように、この姿勢は教会の揺籃期から数十年近く続いた姿と重なるのである。
教会は嵐の中の小舟のように様々な課題に翻弄されている。それでも、一桁の出席ではあるが、一週も休むことなく朝の聖日礼拝を継続することができている。そのことを通して、わたしたちは今、改めて御声に耳を傾けている。それは、開拓時代の牧者や兄姉が行ってきたこと。つまり、隣の教会とも協力して、もう一度始めるという御旨である。そうして、遣わされているこの場所に種を蒔き、根を張るために、先達と同じように勇気を持って踏み出す。祈って、何度でも始める。それが郡中南教会に聞かされた御声だと信じます。道を示し、配慮してくださる神に感謝します。