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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【5017号】ペンテコステメッセージ(1面)

2024年4月27日

枯れ果てた骨

そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。
エゼキエル書37章1~14節

 

勝田教会牧師
鈴木 光

枯れ果てた骨

 その谷は骨でいっぱいでした。見渡す限りの骨、骨、骨…。
 主にうながされて、エゼキエルはまわりを行き巡ります。そしてもう一つのことに気づきました。その谷いっぱいの骨はどれも「甚だしく枯れていた」のです。そこには命を感じさせるものはなく、あるのはただ死の気配だけ。
 なんともの悲しく、虚しい風景でしょうか。
 主は「これらの骨はイスラエルの全家である」と言います。国が滅びようとしており、神殿は見る影もなく破壊され、人々は故郷から引き離され捕囚となっています。彼らは言います。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と。
 …正直に告白をすると、この個所を読んで最初に連想したのは、私自身の姿であり、私たち「教会」の姿でした。
 私たちは枯れ果てた。望みは持てない。ただ、しぼんでいき、滅びていくのを待つばかりなのではないか、と感じていたからです。
 コロナ禍を経て、多くの変化がありました。やっと集まれるようになったね、と再会を喜んだのも束の間、閉じ込められていた期間のダメージが大きいのでしょうか、高齢だった多くの聖徒たちはぐっと弱ってしまったように見えます。
 一方で地元を離れ、都会に出ていく若者たちも、コロナ禍の最中はかえってオンラインでつながりを持てていましたが、今はなかなか様子も分かりません。信仰生活は守られているのでしょうか。
 私自身もこの数年間、与えられている働きと召しとのギャップに苦しみ、バーンアウト寸前になりました。同労者の先生に助けてもらって、働きの形が大きく変わりました。悪い変化だとは思いませんが、変化の先は見えません。
 私たちはどこに向かうのでしょうか。
 主はエゼキエルに問いかけます。「これらの骨は生き返ることができるか?」
 この問いかけは「とても無理に見えるだろう」と念を押しているようにも聞こえます。
 エゼキエルの答えは冷静で、空元気の希望を述べるのでも、絶望を嘆くのでもありませんでした。
 「主なる神よ、あなたのみがご存知です」
 そうだな、と私も思います。まずは現実を受けとめることが必要なのでしょう。あなたの目にうつる現実はどんなものでしょうか?

骨に向かって言え

 先の見えない現実を前にして、しかし、主はエゼキエルに命じます。
 「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい」
 その預言の内容は、主が骨の上に筋(すじ)をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込むというものでした。エゼキエルは素直にそれに従います。すると、その預言をしているさなかに、骨は音を立てて動き始め、筋と、肉と、皮膚がそこに次々と重なっていったのです。
 「骨に向かって預言」するとは、いかにも変な話です。無駄で、意味のないことのように思います。しかし、エゼキエルは従順でした。命じられたことに従いました。そして、主はご自身が与えた言葉どおりのことを、言葉どおりに行われたのです。
 注目したいのは、骨を動かすのも、筋や肉や皮膚をつけるのも、すべて結局のところ主がなさると言われ、実際にも主がなさったということです。エゼキエルはただ命じられたとおりに預言の言葉を言っただけで、不思議な御業はすべて主ご自身がなさったことです。
 とても生き返りそうもない骨が生き返るのも主がなさること。
 だとすれば、骨のような私たちが息を吹き返すとしても、それもまた主がなさることです。
 では、私たちはどうするべきでしょうか。エゼキエルの姿に倣うならば答えは明白です。私たちは私たちに命じられたことを誠実に、忠実に、従順に行うだけです。
 誠実、忠実、従順…。なんと時代と逆行している言葉でしょうか!
 しかし、それこそが私たちに与えられた恵みなのだと思います。私たちには主に従うことが残されています。
 それは世にある恵みとは違います。本当の主人であり、私たちを創造し、今も愛しておられる神様を信じる私たちこそが知っている、本当の恵みなのです。
 エゼキエルがそうしたように、私たちも御言葉を聞き、語り、また行うのです。その飽くなき繰り返しのさなかに、主は不思議なやり方で命を与えてくださるのです。

 

霊に向かって言え

 続けて主はエゼキエルに命じます。
 「霊に預言せよ」
 主の霊である聖霊に向かって預言するとは、何だか矛盾しているようにも、不遜なようにも感じます。
 「霊よ、四方から吹き来たれ」などと偉そうに言うなんて、本当に大丈夫なのでしょうか。
 しかし、それもまたエゼキエルへの主の命令です。エゼキエルは言われたとおりに語り、主は肉体を取り戻した骨に自ら霊を吹き込まれ、「彼らは生き返って自分の足で立った」のです。
 私たちは聖霊を自由に操るコントローラーを与えられるわけではありません。しかし「霊よ、四方から吹き来たれ」と言えと命じられたのなら、素直にそうすればよいだけのことです。
 時を超えて今、イエス様も私たちに語りかけています。「求めなさい。そうすれば、与えられる」「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11・9、13)
 私たちは求めることが求められています。
 「聖霊なる神様、今、私たちに吹き寄せてください。私たちを満たし、圧倒的な主の臨在を与えてください。あなたが主であることを私たちに教えてください」と求めて祈りましょう。
 主が立ち上がらせてくださるので、私たちは必ず立ち上がるでしょう。

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