インスタグラムアイコンツイッターアイコンyoutubeアイコンメールアイコン
日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【5016号】イースターメッセージ(1面)

2024年3月23日

「さあ行け、そこで会おう」

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
(マタイによる福音書28・5〜10)

 富士見町教会牧師
藤盛勇紀

死は時間を止める

「あの時から、時間が止まりました」。愛する者を突然失った人が発した言葉です。周りは何もかも昨日と同じく、何事もなかったかのように動き、自分も確かに動いている。けれども、生きていると意識もせず、ただ流れている。
 イエスが十字架で死なれた後、弟子たちはどこで何をしていたのか、聖書は語りません。分かることもあります。彼らが故郷のガリラヤへ帰って行ったことです。
 最初にイエスの墓に行った女性たちに、天使が告げます。「あの方、イエスは、死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」。これを、急いで行って弟子たちに伝えよと。その直後、イエスご自身が念を押すように、「行って、わたしの弟子たちにガリラヤへ行くように言いなさい」と告げられ、この後、弟子たちはガリラヤへ行きます。
 ただ、彼らは主が復活された事実を受け止めて、喜びと希望に満たされてガリラヤに向かったわけではないようです。驚きや喜びが巻き起こり、複雑な思いが交錯したでしょう。しかし同時に、これまで味わったことのない重い罪責感、言い様のない脱力感や不安はなかったのか。
 イエスと共に過ごしたこの数年の日々が、何か束の間の夢を見ていたかのよう。主と共にエルサレムにやって来たのは一週間余り前のこと。弟子たちは皆、期待と希望を膨らませていました。ところが、わずか数日で思いもしなかった事態が急展開。イエスは捕らえられ、つい先日はイエスを歓喜の内に迎えた民衆の心も、手のひらを返したように一変した。弟子たちは恐ろしさのあまり主を見捨てて逃げてしまう。イエスは人々に嘲られながら十字架で死なれた。アッと言う間の一週間。夢だったのか。
 大切なものを一遍に失い、想定外の悲劇に打ちのめされたとき、周りの世界からスッと色が抜け、モノトーンのように鮮やかさを失います。音までも失われ、生活がしーんと沈み込む。祭りの後のような喪失感と脱力感、挫折感。主の弟子たちもそんな魂の傷を負って、傷心故郷へ帰って行ったのではなかったか。
 それはあの女性たちも同じ。マグダラのマリアは、かつてイエスと出会った時、このお方のもとでなら人生をもう一度やり直せる、新しく生きられると信じて、主に従って来た人たちの一人です。しかし今、その方の墓を訪ねなければならない。もう全てが終わってしまった。世界は何も変わっていないのに、意味のある音や言葉が耳に入って来ない。

 

突然迫る言葉

 ところが、この失意の中に、突然天使が近づき、一気に語ります。「急いで行って、弟子たちにこう告げなさい。『あのかたは死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」。なんとせっかちな。イエスが復活されたという仰天ニュースを一息で告げてしまう。えっ、ちょっと待って、と言う隙も与えません。
 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」。恐れているのか、喜んでいるのか、もう何だか分からない。ただ、なぜか喜びが満ちてきて、急かされて彼女たちは走り出します。
 するとそこに今度は、イエスご自身が突然現れ、「おはよう」。ええっ、ちょっと待って。おはようって、なに? 「おはよう」は「平安あれ」とも訳されますが、それも何か堅すぎます。英訳もけっこうまちまち。直訳すれば「喜べ」。文脈によっては「やあ」、「ごきげんよう」。十字架の周りにいた人々が嘲笑って言った「万歳」。いずれにしても明るく、元気のよい言葉です。「よお!」「暗い顔するな、喜べ」。
 もちろんイエスは、彼女らの悲しみも恐れも不安もよくご存じです。だから天使も主ご自身も、「恐れるな」と言うのでしょう。しかし、イエスは彼女たちの恐れにも「かかずらっていられない」とでも言うかのように、「恐れるな」の一言で終わり。そして「行って告げよ」と急かします。この三日間、時間が止まったような失意の中に、突然、無理に急かし、走らせ、行かせる力が迫ります。

 

死も恐れも疑わしい

「もう一切が終わったんだ…」。いや、違う!行け! 説明は後だ! 生きておられるお方は私たちを混乱させます。そもそも復活なんて信じられない? しかし主は、そんなことお構いなし。このお方に迫られたとき、一気に疑わしくなります。人間が一度も疑ったことのない「死」が疑わしくなる。「死んだらお終い」、「死ねば全てが無意味とは言わないが、全ては不確かではないか」。それも疑わしい。すべてを不確かに不安にし、希望を失意にしてしまう死。そんな死は、その力は、本当か?
 そんな所に留まっているな! 主があなたを、先へと行かせようとしておられるのではないですか。死への根本的な不安や恐れ、切り離された孤独感や空しさ、それらは、あなたが一人で思っている独り決めではないですか。あなたの主がおられるのに。
 私たちがついに出会うもの、不意に出会うもの、私たちを最後に捕らえるものは死ではありません。私たちが思いもしなかった出会いに生かすために、私たちの主は先回りして行く手に立っておられます。そして、待っておられます。「ガリラヤで会おう!」。その意味? それは行ってみてからの話。主はあなたに用があり、あなたが必要だから、あなたを招いておられるのです。
 主の言葉があなたに迫ったなら、まずは従って行ってみませんか。そこであなたは知ることになるでしょう。「行きなさい。そこで会おう」。

教団新報
PageTOP
日本基督教団 
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2024
The United Church of Christ in Japan