カトリックの叙階式に初めて出席した。神父となる方のご家族は日本基督教団の教会員。東京カテドラル大聖堂に多くの方が集まった。式の中で叙階を受ける方々が体を床にうつ伏せにする場面がある。神さまの前に身を投げ出して委ねきり、自分の力ではなく神さまの力によって福音を伝えていく。脱力してこそ必要な力を得ることを改めて知らされるひとときだった。
かつてお仕えした教会で、説教が始まるとすぐに長椅子に横たわる求道者がいた。アルコール依存もあり受付では毎回その方が手にしている紙パックのお酒を一時お預かりした。誰も声をかけないのに献金の時に起き上がり、献げ物をしてまた伏せて礼拝後静かにお帰りになる方だった。皆が聖霊に守られていると感じる光景でもあった。
礼拝の語源は「ひれ伏す」だが、所作を伴わなくても、誰もが全てを神さまにお任せする信仰の原点に置かれる。世に在る責任や役割、力むことからも解放され主に在って力を抜く恵みも礼拝の豊かさの一つであろう。教会にまだ見ぬ誰かと神さまとの新しい出会いがあるよう祈る。
5月に父を天に送った。静かに息を引き取る瞬間を母と見守り、完全な脱力に主の平安を覚えた。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(ローマ6章8節)。
(教団総幹事 網中彰子)