受洗試問会で、ある壮年の志願者が、洗礼を志すようになった経緯について、「食前に祈りを捧げていた祖母の姿や、闘病の末に召された父を信仰者として支えていた母の姿に接していたことがある」と語ってくれた。それを聞いていた複数の役員が、口々に、「実は、私も『宗教2世』です」と自己紹介していた。▼今、世間では、「カルト」問題に向き合う中、こと「2世」にまつわる問題に関しては、「宗教」の問題として捉えられている。キリスト教会も含め、伝統的宗教においても、信仰者の親に育てられたことが傷みとして残っている人が少なからずいるのだろう。幼児洗礼を受けている者として、その傷みは分からないではない。近しい者との関係においてこそ、相手の人格を尊重し、無自覚の内に権利を侵害してしまうことがないように心掛けなければならない。▼しかし、教会の信仰には、所与の現実の中に摂理を受け止め、世の苦しみの中に神の救いのご計画を見出して行くという側面がある。自らの歩みを通して証をする時には、臆することなく語る者でありたい。「実は、私も『宗教2世』です」と。悲劇ではなく恵みを伝えるための言葉として。