伝わらない言葉であっても
和田 征子さん
日本原水爆被害者団体協議会事務局次長、洗足教会員
和田征子さんは1歳10か月の時に長崎で原子爆弾投下に遭遇した。当時の記憶は無いが、母から惨状を繰り返し聞いて育つ。活水、明治学院に学び、英語教師として勤めた後、夫の仕事でカリフォルニアで過ごした。
2015年、核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議の際には要請団としてニューヨークに赴き、国連のロビーで原爆展を開催した他、学校や施設で、英語を用いて被爆の証言をした。帰国後、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の活動に参加、事務局次長に就任、被爆者への国家補償、核兵器廃絶を二本柱に活動している。
しかし、いずれも険しい道のりだという。日本政府は、国の戦争はすべての国民が等しく耐え忍ぶものとの「受忍論」を主張し、国家の責任を認め補償するということには至らない。世界では、核を保有する常任理事国が廃棄の難しさを主張し、核兵器の「非人道性」は重く受け止められて来なかった。昨今では、ロシアによるウクライナ侵攻を受け、日本でも核の議論をすべきとの声まで聞こえてくる。
和田さんは、人間の罪に対する悲しみを訴えながら、「戦争というのは人が殺し、殺されることが前提であり、正当化され得ない。今こそ、被爆国として核に依存しない平和を訴えるべき」と語る。
和田さんは学生時代、長崎古町教会で受洗した。クリスチャンとして証をすることと、被爆者として証言することは深く結びついているという。戦争被爆者として最も若い世代に当たる和田さんは、自らの体験として核兵器の悲惨を語れる人が少なくなって行く中、母から聞いたことを正確に伝えようと努める。「伝わらない言葉であっても伝えなくてはならない」と自らに言い聞かせながら。