賀川豊彦の働きを受け継いで
社会福祉法人イエス団理事/神戸イエス団教会牧師 上内 鏡子
法人イエス団は、弱冠21歳の神学生賀川豊彦が、神戸にある貧しい地域のために身を投じたところから始まっています。1909年12月24日クリスマス前夜のことです。彼の日記『溢恩記』には、当初実行したいと願っていた事柄が箇条書きで記録されています。無料診察、無料葬儀も含まれており、地域の人々の生涯に寄り添って生きようとしていたことがわかります。賀川はすぐに「救霊団」を結成し、これを母体として働きを展開していきました。法人イエス団の前身です。当時の地方新聞などにも取り上げられ、多くの人々が賀川の働きに関心を寄せ、協力者も多く集まったようです。救霊団の活動は、礼拝や路傍伝道に限らず、診療所が開設され、子どもたちへのケアをしたり、滋養供給を目的としたり、一膳飯屋を開業、労働の場としての歯ブラシ工場なども展開したりしていました。
その後、救霊団はイエス団と改名されますが、既成の「教会」を設立することはせず、地域に根付いた事業を中心に展開していきました。これら多様な働きは、1923年9月1日に起きた関東大震災で賀川が東京へ移転したことで、神戸の仲間たちに引き継がれました。やがて時代の要請で財団法人となり、診療部門、宗教部門など役割分担をしながら、より機能的な動きを担うことになります。
戦時中、宗教団体法で宗教部が日本基督教団へと加盟する道を余儀なくされ、神戸生田川伝道教会(現神戸イエス団教会)となり、戦後は法人法によって、社会福祉・学校・宗教の3法人として、役割を分担することになりました。現在、学校法人の教育機関1校、社会福祉法人では、2府5県にわたり40近い施設があります。一方、3法人は使命を共有し協力しながら、現在に至るまで地域に根付いた働きを続けています。
賀川の死後、『賀川豊彦全集』を発刊した際には、差別的な思想の下に著された著作物も含まれており、賀川豊彦の差別性がクローズアップされ、イエス団自身もこの課題に取り組むことが求められました。1988年は賀川豊彦生誕百年、更に、1999年は、賀川豊彦献身90年を迎えて、賀川の差別性に向き合いつつ、イエス団が目指す働きの理念を「イエス団憲章」として発表しました。また、2009年12月24日の賀川豊彦献身百年では、原点回帰として、行政をはじめ、賀川に関係する協同組合や教育機関、キリスト教関係諸団体と協力して、その働きを見直す作業が進められました。法人イエス団は「イエス団憲章」の見直しを数年かけて実施し、献身百年に併せて「ミッションステートメント2009」をまとめました。これは、イエス団職員や、施設を利用する高齢者から子どもにまで、使命を広く知らせる意味を込めて、平易な言葉で作成しました。とくに前文には賀川の差別性を忘れないという思いを込めて「歴史を検証」するという一文を加えました。この言葉は、過去における深い反省と未来に向けた大きな希望をもって紡ぎ出されています。