【4930・31号】桜美林学園創立者 清水安三の生涯 「夢を見よ」

《若い日の安三》

桜美林学園は来年2021年に創立100周年を迎える。100年前の1921年、桜美林学園はどのようにして誕生したのか、その経緯をたどりながら創立者である「夢追い人、清水安三」の人物像を紹介したいと思う。

清水安三は1891年、琵琶湖の西岸、滋賀県高浜町の比較的裕福な半農半商の家に次男として生まれた。しかし、長男の放蕩が原因で実家が没落し、安三は経済的に困窮した少年時代を過ごすことになる。旧制膳所中学(現在の県立膳所高校)に入学するものの、貧しい家庭環境のため学業に集中できず、安三の言葉を借りると“いつもクラスの中で最後から数えたほうが早い順序だった”。そうした安三であったが大きな転換期が訪れる。当時滋賀商業学校の英語教師に赴任したばかりのメルリ・ヴォーリス(1880〜1964)との出会いである。安三はヴォーリスの招きでバイブルクラスに参加し、そこで初めてキリスト教信仰に触れたのであった。ヴォーリスの熱い信仰の影響で、安三は1908年に大津組合教会で洗礼を受け、さらには牧会者としての志を立て、学費を必要としない同志社大学神学部へと進学するのであった。

同志社時代、安三は大きな決断をする。唐招提寺を訪れた際、開祖鑑真和尚の布教への熱意に打たれ、また義和団事件で殉教した米国人宣教師ホレス・ピトキンの逸話を耳にし、自分も宣教師となって中国へ渡ろうと誓うのである。

《中国へ派遣される》

組合教会最初の宣教師として安三は中国へ派遣されることになったが、出発直前、彼は大阪毎日新聞の長谷川如是閑を前に“自分は中国に行って20歳代で小学校、30歳代で中学校、40歳代で高等学校、そして50歳代で大学を建てるつもりです”と公言し、“ホラを吹いたと言うならそれで結構。夢を持って海を渡る”と熱く語った。それがそのまま翌日の新聞に記載されたと聞く。この夢がその後、見事に結実するとは一体誰が想像出来たであろうか。まさしく「夢を見る人、清水安三」の誕生である。

1917年6月、安三は中国の奉天(瀋陽)に着任したが、2年後、“血と汗をぶち込んで”中国の土になる覚悟を決め、妻の清水美穂と二人で北京に移り住む。同年1919年秋、中国北部一帯を未曾有の大旱魃が襲った。この大災害に対して、欧米の宣教団体はいち早く救援活動に乗り出したが、安三も遅れずに立ち上がる。財界の大物渋沢栄一に直訴し、送られてきた義援金をもとに妻や中国の同志と共に大八車を引いて華北部の農村を巡り、飢えに苦しむ子どもたち799名を集め、北京の朝陽門外に急設した救済施設に保護するのだった。旱魃がおさまった翌年、安三は子どもたち全員を故郷へ送り届けるのだが、不幸にして親を失った子どもには養子先を見つけ、最後の一人まで救い続けたのであった。

《北京 崇貞学園での活動》

朝陽門外一帯は、当時、貧困層が暮らす中国最大のスラム地域であり、若い娘たちがわずかな金銭で身売りされる日常を目にした安三は、少女たちを救う道は教育以外にないと強い思いを抱いて、いわゆる読み書きとそろばん、つまり識字教育を行い、同時に自立のための技芸を習得させる無償の学校である「崇貞(ツオンチェン)工読学校」を設立する。1921年のことであった。この年をして桜美林学園の誕生と我々は考えている。その後、工読学校は「崇貞学園」と名称を変え、徐々に教育施設を整備し、1945年の敗戦までひたすら教育活動を続けるのであった。その間、1924年から3年間、安三夫婦は大原孫三郎の援助で渡米し、オベリン大学(Oberlin College)に留学。BDの学位を取得した。

崇貞学園は1939年に日本人部を併設し、文科省の認可を受けた高等女学校が開設されたのである。すると、たちまち日本国内のみならず、植民地であった朝鮮半島から多くの生徒が集まり、中国人、朝鮮人、日本人がともに学ぶ、所謂、「グローバルな学校」として注目を浴びるようになる。安三はとりわけ朝鮮人生徒に対して、朝鮮民族の誇りを失わないようにと心を配り、創始改名を嫌い朝鮮名で生徒を呼び続けたのである。勿論、当局からの非難と嫌がらせは覚悟の上のことであった。こうした安三の献身的な働きを北京の人々は高く評価し、何時しか「北京の聖者」と呼ぶようになっていった。

安三は自らの教育の理念を見事に一句で表現している。「学而人事」である、「学而人事」とはまさに「学ぶことは自分のためではなく隣人のためになすべきものだ」という教えである。つまり、学園は「隣人愛を体現する人」の育成のために存在するということである。この教えは桜美林学園の建学の精神として今もしっかりと受け継がれている。

《桜美林学園設立》

1945年、戦争が終結した年、「崇貞学園」は中国政府に接収され、安三もすべてを失いトランク一つで家族と共に帰国の途に就く。その時安三は54歳。引退してもおかしくない年齢であったが、彼はそこで終わらない。彼には次なる夢があったのだ。その夢とは“敗戦の日本に必要なのは、平和を愛する世代を育てる学校の設立”である。

ある日、焼け跡が広がる東京神田を歩いていると、偶然にも路上で賀川豊彦と出会う。賀川は安三の学校設立の熱い思いを聞き、GHQから管理を任されていた東京町田にある軍需工場の職員寮を紹介するのであった。安三は早速、そこに桜美林学園高等女学校(旧制)を創立する。1946年5月28日、帰国してから僅か数か月の出来事であった。1947年に桜美林中学(共学)、翌年には桜美林高校(共学)が開設される。野球が大好きな安三は、早々と野球部を設立し“いずれ甲子園で優勝する”と豪語するのであったが、“またいつものホラだ”と周囲は眉をひそめる。しかし、桜美林高校野球部は1976年、夏の甲子園大会に初出場し、なんと決勝戦まで勝ち進みPL学園を逆転で負かし初優勝を飾ったのである。安三はその時の心境を歌であらわした。“夢を見よ。夢は必ず成なるものぞ。うそとおもわば甲子園に聴け” そして、ついに1966年、生涯の夢であった4年制大学の創立を成し遂げるのである。桜美林大学は現在、7学群の学士過程と7つの大学院研究科を合わせると約1万人の学生が学ぶ総合大学へと成長した。

この間、安三は常に学校経営の先頭に立ち、学長、学園長を歴任、1988年1月17日、日曜日の説教を終え、“疲れた”とつぶやいて横になり静かに息を引き取った。96歳の生涯であった。清水安三は大きな夢を抱き、それを実現する稀代の教育者・宗教家であった。三谷高康(桜美林大学)

(Kyodan Newsletterより)

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