時代と他者に出会い直して行く教会
柳下 明子 《日本聖書神学校教授/歴史神学》
新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、「不要不急」の外出の自粛要請が始まると、地域によっては主日礼拝を会堂で行わない、または教職のみで礼拝を献げる、ということが起こりました。
カトリック教会では感染拡大を防止するのは愛の業であるとの判断で、2月末には東京大司教区では信徒の「ミサの免除」が宣言され、公開のミサは中止となりました。日本聖公会でも教区によっては「公祷」の休止を決定しました。東京教区ではその決定の後、主教の司式する聖餐式の配信を教区が始めています。これらの教派においては各個教会の個別の礼拝の状況に関わらず、司教の献げるミサや、主教の献げる聖餐式を通して教会の公同性は保たれることになります。ルター派の教会ではルターの著作から、主日礼拝は律法的に特定の場所や時間に拘束されるものではない、という共通理解を確認することで、家庭礼拝を意味づけることも可能でした。
「教会は主の日毎に礼拝を守り」と教憲に定め、各個教会主義に立つ日本基督教団では礼拝共同体の公同性はどのように保たれるのでしょうか。
「不要不急」の活動の自粛を要請される地域で礼拝をどうするのか、ということは当然のことながら教会の状況に応じて判断することになります。多くの教会が厳しい決断を迫られたことと思います。「もし、教会が集団感染を起こしたら」、「礼拝出席者をいのちの危険にさらすのか」、「『自粛要請』などという一切の拘束力を持たないものに従って主日の礼拝を休むのか」、「礼拝は『不要不急』なのか」。
これらの問いに正解が与えられていれば、どれだけ楽なことでしょう。
会堂に於ける礼拝を休止した教会では、週報を基に会員が家庭礼拝を持つことを勧めたり、ウェブで礼拝を中継したりして、伝統的な文書伝道と新しいツールを用いた牧会を展開してきました。この経験は、今後感染症の拡大が落ち着いて各地で礼拝堂に人が集まる日々が戻ってきたとき、必ず教会を支えるものになるはずです。教会は自分たちが何を大切にするものであるかを明確に自覚して、様々なツールをもって宣教に向かうものになったからです。
日本聖書神学校でも前期の授業は遠隔で開始しましたが、学生が「同じ教室で共にいるということに聖霊が働いていることがわかった」という感想をもらしました。不便や喪失の中で、本質的なものを発見することがあります。そして学生たちには、「各個教会主義の教会に仕える牧師は、とにかくよく学び、遣わされた教会の状況をよく見て、柔軟に対応することが必要」ということを伝えました。先人の神学者たちの言葉に学び、他教派の実践と対話することは、各個教会主義の教会が不安の中で立って行くときの支えです。
分断と経済的破綻が一層深まったこれからの世界には、教会の果たすべき役割はますます大きいでしょう。対話に対して、社会に向けて「開かれている」ことが教会に一層求められます。共に時代と他者に出会い直して行きましょう。
コロナ後の「新しい日曜」
関谷 直人 《同志社大学神学部教授/実践神学》
私が協力牧師として関わっている教会は、もともと自前の礼拝堂を持たず、幼稚園の園舎を借りて毎週の礼拝をしてきた。だから新型コロナウイルスによる幼稚園の通園停止に伴って、必然的にこの教会は礼拝する場を持たなくなったのである。
そこでこの教会では、副牧師がビデオカメラとPCの動画編集ソフトを駆使して作成した「礼拝動画」をユーチューブにアップロードし、毎週日曜日の朝に信徒がそれを視聴できるようにしてきた。
悪いことばかりではない。聴覚が弱ってきた高齢者の信徒からは、「音声が礼拝のときよりもはっきり聴こえる」との声があり、自発的に「最近の動向」として写真や短信をメールで送ってくる信徒も現れた。それらを紹介した次の週の動画の「報告」は、信徒同士の交わりを維持する上で大切なやり取りの一つとなっている。
顔と顔とを合わせてでなければ礼拝とは言えないという思いはわかる。しかし、今回の「新型コロナ」下においては、礼拝堂での対面式の礼拝の中断を決定した教会は「苦渋の決断」(決して「苦肉の策」ではない)として、オンラインによる礼拝映像・音声の配信や説教原稿の配布を行なってきた。そのような礼拝の形を、単なる緊急避難時の「礼拝の代替措置」で片付けてしまうのはあまりにもったいないではないか。むしろ、ここで得たものを今後の礼拝や交わりのバリエーションの一つとして捉え、深めることが大切ではないかと思うのである。
私たちの教会には、特に「コロナ」に関わらず、礼拝に来ることが困難となった高齢者が大勢いるはずである。障がいがあったり、仕事や家庭の事情でなかなか礼拝に来ることのできない信徒や求道者も少なくないだろう。もし、顔と顔とを合わせて礼拝することだけが真の礼拝であり、その場に身を置くものだけが礼拝に参与しているのだとするなら、様々な事情で対面式の礼拝に参与できないこれらの人々を、共同体において区別し、そこに見えない「垣根」を作ってしまうのではないか。
コロナ後の「新しい日曜」を考えてみたい。対面式の礼拝に、今回の経験で培ったスキルを生かして(ハイテク・ローテクは問わず)様々な「礼拝」のバリエーションを(毎週とはいかないとしても)加えていく。そうすれば、日頃礼拝に出ることが困難な人々が「垣根」なく、そこに参与することができるようになるのではないだろうか。もちろん、そのために牧師個人に「過度な負担」が生じないように、信徒と牧師が知恵を出し合う必要があるだろう。この「コロナ」の苦しみを一過性の「苦難」としてではなく、"universal"で"inclusive"な礼拝を考える契機としたい。
神の招きによって自発的に集まる群れ
須田 拓 《東京神学大学教授/組織神学》
教会は「恵みにより召されたる者の集ひ」、即ち、神の招きによって集められ、信仰と洗礼によってキリストに結ばれた者の群れである。その群れは、「公の礼拝を守り」というように、全ての人に開かれた礼拝を守り、そこで福音が正しく宣べ伝えられ、聖礼典が執り行われる。それは、神が招かれ、信仰へと導かれる方を、いつでも受け入れる用意があるということでもある。
日本の教会は、(国教会体制ではなく)自由教会として、この地に福音を宣べ伝えたい、また、ここに教会が必要であるとの、信仰による自発的な思いによって建てられてきた教会であり、神の招きと導きの下、一つの信仰の内に、自発的に礼拝しようと集まる者の群れであることを大切にする伝統を持つ。そのことに鑑みれば、今回の新型コロナウイルスの問題への対処も、自粛要請の有無によるのではなく、専門家の説明やガイドライン等を参考にしつつ、自発的に判断する必要があろう。
逆に言えば、今回、都道府県知事による自粛要請から教会は明示的に除外されたが、それは何の対策もしなくてよいことを意味せず、私たちが自ら考え判断しなければなるまい。その中で、どうしても感染のリスク、また感染させるリスク等を回避できないと、会堂に集まることを避けて自宅で礼拝する、あるいは会堂で行われている礼拝の中継を視てそこに心を合わせるという判断を個々人がすることもあり得るであろう。
教会が、神の招きと導きによって、共に礼拝しようと自発的に集まる者の群れであるならば、本来、そこに来られる方がある限り、礼拝は守られ続けることになる。まずは、個々人に与えられた礼拝への思いを最大限に尊重し、礼拝が感染拡大の場とならないためにどのような対策を取ることができるか、群れとして、礼拝を守るための出来る限りの検討をしたい。その上で、なおどの程度の公衆衛生上のリスクがあるのかを踏まえ、群れとしての判断も必要となる。
その中で、看過できない危険があるとして、やむを得ず、会堂に集まっての礼拝を限定あるいは休止するとしても、本来教会が礼拝に集められた「群れ」であることをどのように共に意識することができるのか、そして、このような不安な時であるからこそ神に心を向けようという方が興された時に、その方々をどのように群れに受け入れるのか、十分に考えておく必要がある。
このような時であるからこそ、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とあるように、私たちは御言葉に聞き、主が確かにおられることを信ずべきであるし、そのための信仰生活が貧しいものになってしまわないように注意したい。そして、ここに確かなものがあることをどのように指し示すことができるのか、祈りを合わせたい。