日本基督教団では、毎年2月11日を「信教の自由を守る日」と定めている。
コリントの信徒への手紙一10章14節には、パウロの言葉で「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」とある。出エジプト記32章には、モーセが神より授かる十戒を待てずに金の仔牛の像を造り、それを神と祭り上げ、その前で飲み食いし戯れる人々の姿がある。神ならぬものを神と祭り上げ、自らの欲望の赴くままのあり方を自己肯定していく人々のありようは、やがて争いへと発展し、破滅へと向かうのではないか。
パウロは同章のメッセージで、「偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。…わたしたちは、主より強い者でしょうか」と訴えている。
パウロが人々に願っているのは、平和の主であるキリストへの信仰をぶれなく持ち続けてほしいとの願いである。それは私どもの信仰の質を問われる言葉としてある。要するに、あなたがたの信仰は誰に対するものか、という問いである。
戦前の教団は当時の宗教団体法のもとに一つにまとめ上げられ、挙国一致体制に組み込まれていった。その結果、礼拝の最後に皇居遥拝をするという、あり得ないようなことを強いられた。天皇を現人神として拝んだわけで、それが皇国臣民たる国民の義務だとして宗教も国家の強烈な干渉を受けたのである。信教の自由を損なわれたのである。
仏教では仏に祈るし、キリスト教ではキリストを通し神に祈る。相互に干渉はできない。これが信教の自由である。しかし当時の政府は国家神道としてまず現人神たる天皇を崇拝することを求めた。そこで天皇を拝むのは宗教的に言って間違っている。御真影に最敬礼をしなかった内村鑑三の不敬事件で、彼はそれを神のように祭り上げることは違うと感じたのであろう。
パウロの言う偶像崇拝は私たちが信仰の対象をはっきりとさせないこと、時に人間を祭り上げることをも含み、さらに人間の考えや感情に左右される信仰のありかたをも問題にしている。ぶれない信仰による平和への祈りを私どもは心にしっかりと育んでいこう。