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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4920号】恵泉女学園 創立者 河井道 

2020年2月15日

真の校長は愛の神さま

松井 弘子

(恵泉女学園史料室運営委員)

「恵泉女学園の真の校長は愛の神さまです」と言い続けた河井道(1877-1953)の精神は今も恵泉女学園中学・高等学校、恵泉女学園大学・大学院の教育の中にしっかりと生きている。

 「河井道は生涯、教会を大切にし、学生・生徒、教師・職員、保護者、また世界の友への熱い祈りと一身を捧げて人々を愛した。女性の自立、自主、神の前に立つ人格存在としての自覚を促す教育者であった」と、河井道の教えを受け家族同然として暮らし、現在恵泉女学園特別顧問の一色義子は語る。

 恵泉女学園は海外の宣教団体の支援を受けて設立されたミッション・スクールではなく、日本人キリスト者河井道が、信仰に基づいて設立したクリスチャン・スクールである。

 伊勢神宮の神職の家に生まれた河井道は、明治維新の改革で父が職を失い、幼い日に北海道へ移住した。函館で宣教師サラ・スミスと出会い、札幌に同行し、スミス女学校(後の北星女学校)で学んだ。札幌でのスミスの薫陶、新渡戸稲造の指導が河井道の生涯を方向づけたといえる。津田梅子の推薦もあり奨学金を得て新渡戸稲造夫妻と共に渡米したのは彼女が21歳の時であった。ブリンマー大学を卒業し帰国した1904年秋、河井道は津田梅子が創立した女子英学塾(後の津田塾大学)の教壇に立つと同時に日本YWCA設立委員となった。日本YWCAの日本人初の総幹事に就任したのが35歳の時。総幹事としての14年間、日本国内ばかりでなく欧米、アジアへ会議や視察、講演に飛び回り、関東大震災後の復興支援やYWCA修養会・全国大会の実施に多忙を極めた。

 河井道が日本YWCAを辞し、学校教育に使命を見出した時、渡辺百合(後の一色百合)、森久保壽等、河井道の女子英学塾の教え子たち(卒業生)は、祈りつつ募金活動をし河井道を支援した。「小さき弟子の群れ」と名付けられたこのグループはやがて維持会となり、現在の恵泉フェロシップの働きにつながっている。

 1929年9名の生徒で恵泉女学園は開校した。YWCA時代の友人フローレンス・ウェルズや、北海道時代の知人、末光績、本郷新等も教員に加わった。

 河井道が著した自叙伝(My Lantern 1939,日本語版『わたしのランターン』1968)から引用する。

 「わたしの学校!それはどういう種類であるべきだろう。規定されているカリキュラムとともに、実践的な宗教教育を与えるかたわら、国際の勉強をその具体的な教科目とする方法はないものかとわたしは考えた。わたしの生徒を通してわたしが国際友交のために貢献することはできないだろうか。戦争は、婦人が世界情勢に関心を持つまでは決してやまないであろう。それなら、若い人たちから−それも、少女たちから始めることである。少女たちはただの好奇心から出発して外国の人々や外国のよいところを理解するように導くことができる。キリスト教が第一に自己を尊重することを教えるとすれば、第二には、人種や階級に関わりなく他の人を尊敬することを教える。なぜならばすべての人類は神の子どもだからである。」

 河井道の英文著書“My Lantern” (1939)と“Sliding Doors”(1950)は欧米で広く読まれ、その売り上げは学園の教育資金として活用された。バーサ・ランバートやエスター・ニューエンドーファー等ブリンマー大学時代の友人たちは、河井道、一色百合の知人であるボナー・フェラーズやジョン・モット、エリザベス・ヴァイニングをメンバーに加えてMichi Kawai Christian Fellowshipを組織し、河井道没後も学園を支援し続けた。河井道が所属した富士見町教会牧師の植村正久、子女の教育を河井道に託した賀川豊彦等との交わりは生涯続き、一色百合の夫一色乕児は学園理事長として全力で河井道を支援した。日本国内にも世界各地にも、キリスト教の教派を超えた友人たちを河井道はなんと多く持っていたことか!

 マドラスにおける基督教世界会議(1931)に出席し、平和使節団(1941)メンバーとして訪米した河井道は、戦時中も、平和を祈り、世界の友のために祈り、毎朝の学園での礼拝を守り、英語を教え続けた。創立時から園芸を大切な科目としてきた恵泉女学園だが、1945年3月女子農芸専門学校設置の認可が下り、高等教育における園芸の歩みが始まった。現在も恵泉女学園中学・高等学校と恵泉女学園大学に必修科目として園芸の科目がおかれている。

 1946年河井道は教育刷新委員会委員となり、教育基本法制定に関わった。世界祈祷日英文祈祷文の執筆は1950年。日本短期大学協会代表として渡米した1951年には使命終了後、国際基督教大学の設立のための募金活動に奔走し、アメリカ各地で講演した。

 1953年2月、5ヶ月の入院生活ののち、75歳で召天。ベッドサイドには一色百合、一色義子がおり、病室内外を囲んだ恵泉関係者の祈りの中、天に召された。

 河井道没後60年以上を経た今も、河井道を「私の先生」と懐かしむ卒業生が多い。「『はい、いいえ、ありがとう、ごめんなさいが言える人におなりなさい』と教えていただいた」等々と。創立者の理念が今なお教育の中に継承されている学校、それが恵泉女学園である。

(Kyodan Newsletterより)

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