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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4917・18号】クリスマス メッセージ 良い知らせ ルカによる福音書 2章1〜20節 神保 望

2019年12月21日

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。《ルカによる福音書2章8〜15節》

不安と恐れの中の出来事

 主イエス・キリストの誕生の知らせは、全ての人々にとって大きな喜びの訪れです。キリスト降誕が伝えられると、マリアとヨセフはべツレヘムまで移動する必要が生じましたが、身ごもっていたマリアにとっては過酷な旅となりました。今日のように発達した交通網があった訳ではありませんから、その大部分が徒歩による荒れ野の旅であり危険に満ちていました。たとえ無事にべツレヘムに到着しても、住民登録のために町の中へと群衆が流入したので宿屋はどこも満室となり、少しの時間でも体を休める所さえ見つけることが困難でした。ですから、疲労困憊してようやく見つけたのが家畜小屋であったとしても仕方ないことでした。主イエス・キリストは、このように家畜小屋の隅に置かれた動物用の餌箱の中にお生まれになり産声を上げられました。これが、キリスト降誕の知らせを受けたマリアとヨセフが過ごしたクリスマスの夜の出来事だったのです。

 一方、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちにも良い知らせが届きました。しかし彼らもまた、不安と恐れの中に夜を過ごしていたのです。羊飼いが羊の群れの番をしたのは荒れ野であり、夜ともなれば羊を狙う強盗や肉食獣が襲って来ることもあったからです。羊の群れを外敵から守るために不眠不休で働いた羊飼いたちにとって、荒れ野で過ごす夜は不安と恐れを感じさせるに十分だったのです。そして突如として漆黒の闇に主の栄光が周りを照らした時、羊飼いたちの恐怖心は絶頂に達しました。彼らもまた、不安と恐れの中にクリスマス前夜を過ごしたのです。

 

希望と喜びの出来事

 こうした不安と恐れに満ちた長い夜は、救い主誕生の知らせが実現したことで希望と喜びに包まれました。お生まれになられた乳飲み子イエスは、家畜小屋のマリアやヨセフだけではなく、危険な荒れ野で夜通し過ごした羊飼いたちを含む、全人類にとっての救い主であると告げられたからです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。

 この「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という御言葉は、今も不安や恐れの中にある全ての人々を勇気づけ、生きる希望を回復させる力に満ちています。何故なら、お生まれになられた乳飲み子は、その後成長されると神の御国の到来を宣言し、弟子たちを連れてガリラヤで宣教され、良い知らせとしての福音を宣べ伝えられたからです。

 しかしその結果、敵対者たちによって十字架刑に処せられ殺されたのです。この出来事は、主なる神ご自身が人類の罪をお引き受けくださったということであり、審かれるべき罪人にとっては救いの出来事となりました。そして主イエスは、三日目に復活されました。主の復活の出来事によって、その罪の故に死を免れないはずの全ての者は、永遠のいのちに生きる希望を与えられ救われたのです。

 マリアとヨセフそして羊飼いたちは、こうした救い主誕生の知らせが届けられたこと、そして主イエス・キリストの誕生によって救いの希望と喜びが到来したと確信したことによって、心の内を占めていた不安と恐れが払拭された代わりに、御子をお遣わしになられた主なる神に対する心からなる感謝と喜びの思いが溢れ出たのです。

 救い主誕生の出来事は、キリストによる救いが完成される神の御国の到来を告げる良い知らせ(福音)そのものであり、全ての人々のもとへとあまねくもたらされた希望と喜びに満ちた出来事です。

 そしてこの良い知らせを聞く者は、誰もが希望と喜びの中に生きる者へと変えられるのです。

 

良い知らせとしての福音

 「知らせ」と言う時、私は宣教師として派遣されたフィリピンでの生活を思い起こします。当時、私は北部ルソンの高原都市バギオからバスで更に4時間半ほど山道を登った山岳地帯の農村教会を拠点に福音宣教の働きに従事していました。そこは携帯電話の電波が届かず、インターネットの設備も整わない地域であり、陸の孤島と表現したくなるような環境でした。ですから日常生活で特に不便を感じたのは、日本から届く郵便物を、勘を頼りに受け取りに行くことでした。日本から送られた郵便物は山を下った町の郵便局に留められたため、たった一通の手紙を受け取るのも一日一本のバスを利用することから全行程二日以上を要したのです。手紙が届いていると予想して郵便局に行っても、届いていなければ翌日のバスに乗って家へと一旦戻り、頃合いを見計らって再び出直すのです。

 こうしたことを繰り返しますと、期待して待つよりもむしろ知らせを受け取る行為自体が億劫に感じるようになります。期待して出かけて行っても、知らせは届かず無駄足になるかも知れない。半信半疑の生活というのは、日本社会の便利な生活に慣れてしまった者にとっては辛い経験となったのです。

 しかし或る年のクリスマスの時期、意を決して郵便局を訪れると、待ちわびていた手紙が何通も届いていました。それは日本の家族や教会関係者、そして多くの支援者から届いた心温まるクリスマスカードだったのです。そして封を切って中のカードを開いてみますと、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と書かれていたのです。

 この御言葉が私の目に飛び込んだ瞬間、それまでの苦労が一気に吹き消される程の感謝の思いに満たされました。これ以降、私は何時間かかったとしても出かけて行って受け取る価値のある良い知らせ(福音)が、御言葉を通じて与えられていることを心から信じ、また神に感謝するようになりました。

 

福音を宣べ伝える

 救い主誕生の知らせによってもたらされる希望と喜びは、キリスト降誕の場面に居合わせた者にのみ与えられたのではありません。主なる神は、御子を通じて世に表された良い知らせを、いつ如何なる時も人々を用い、また様々な方法を以て届けてくださいます。

 クリスマスの夜、羊飼いたちは見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神を崇め賛美しながら家路につきました。

 私たちも、良い知らせ(福音)による希望と喜びを携えて生活の場へと帰り、福音を宣べ伝える者として祝され用いられるのです。

(日本聖書神学校校長)

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