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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4911号】宣教師からの声

2019年9月28日

受け継がれた「敬神愛人」のバトン

-名古屋学院創設者 フレデリック・チャールズ・クライン宣教師-

大藪 博康

(名古屋学院 名古屋中学・高等学校 宗教部長)

 アメリカ・ボルティモアにあるクライン博士の墓石には「仕えられるためではなく、仕えるために」(マルコ10章45節)と記されている。クライン博士は、神様のため、教会のため、人のため、そして名古屋の地にある男子校・名古屋学院のために、その命を最大限用いた。

 クライン博士(フレデリック・チャールズ・クライン)は1857年ワシントンで誕生。1866年ボルティモアに移住し、1873年(16歳)受洗(この年、日本では明治政府がキリシタン禁制を解除した)。1876年ウエスタン・メリーランド大学入学。1882年メソジスト・プロテスタント教会の日本派遣宣教師となり横浜地区伝道団監督に就いた。1883年メアリー・エリザベス・パットンと結婚し日本に渡った。横浜ではアメリカの伝道本部と連絡を取りながら財政全般、土地、学校、教会の運営に従事した。横浜、藤沢で伝道を開始し、ブリタン女性宣教師とともに、英語学校、日曜学校、禁酒会、教会づくりに取り組んだ。

 1885年(明治18年)クライン博士は伝道の実態調査のため、京都・大阪・名古屋を旅した。その旅で名古屋に滞在したとき、山根虎次郎と出会った。山根は名古屋に英語学校を作りたいとクライン博士に訴えた。当時の名古屋は「名古屋区」と呼ばれていた。人口約15万人。日本で第4番目の都市であった。

 ある日本人牧師がクライン博士に言った。「名古屋は保守的な城下町で仏教の力がたいへん強く、宣教師にとっては開拓の難しい不毛の地です」。この言葉がクライン博士の開拓者精神に火をつけた。「理想を実現するために一番困難な場所を選んで道を開くのが私の使命だ」。横浜は外国人居留地があり、宣教師や多くのアメリカ・ヨーロッパ人がいて伝道も盛んであった。しかし、名古屋は儒教と仏教、古くからの神社があり伝統的宗教を重んじる町。キリスト教は邪宗教であると考える人の多い町であった。そこにクライン博士は身を投じていった。名古屋学院設立は初めから茨の道であった。

 1887年(明治20年)7月11日「愛知英語学校」設立。50名募集して12名が集まった。民家を改造した校舎。校長クライン博士、校主山根虎次郎。開設からしばらくして、山根が言った。「クラインさん。ここは英語を教える学校です。キリスト教を教えては困ります。私の思想とも反するし、人々に嫌われます」。漢学者である山根は当時の名古屋の人々の思いを理解する人物であった。当時、英語を学ぶことが身を立て世に出る第一歩と考えられ多くの人が英語を学んだ。しかし宗教は伝統的なものを重んじるのでキリスト教はいらない。そのような人々の思いを山根はクライン博士に伝えた。更に県教育局から「教科から聖書を外すよう」と指示があった。県教育局長からも「14歳以下の生徒に公式に宗教教育を施すことは禁止する。教科課程から宗教の授業を外すならば開校を許可する」との指示。クライン博士は学校内外から反発を受けた。

 それらに対しクライン博士は「毎日正科として聖書による宗教教育を行う」、「教育は知識だけを教えるものではない、心も教え育てなければならない。そのための宗教でありキリスト教なのだ」と一歩も引くことはなかった。当時の総理兼外務大臣である伊藤博文に「直訴状」を送り、正式にキリスト教学校として認めてもらうことを訴えた。直訴は却下されたが、結果的に県教育局との折合いをつけて、申請書の「聖書」を「彜倫(いりん)道徳」と改め、県から宗教教育には干渉しないとのお墨付きももらい、名古屋英和学校が公認されることとなった。開設当時の仲間であった山根とは襟を分かつ形となった。ここに名古屋英和学校の教育の指標が「敬神愛人」と定まった。

 1888年7月11日、民家を改造した校舎が崩れるという不思議な出来事が起こった。開校からちょうど1年。幸いけが人はなかった。それをうけてクライン博士は本格的な校舎建設に乗り出した。建設資金を集めるためにアメリカに一時帰国した。1889年から西洋風校舎建築工事がはじまった。1890年、アメリカの教会で名古屋の学校のために集めた献金を携えてクライン博士が名古屋に帰ってきた。完成した西洋風の校舎は人々の目を引いた。

 クライン博士がどのように聖書や英語を教えていたか、それを知る手掛かりは少ない。第一期生の牧野義雄(英国で画家として有名になる)によると、全人格を通して教育し、愛情と信仰深い生き方を生徒たちに示したことが語られている。

 1893年、人々に惜しまれながら、病気治療のためにクライン博士はアメリカに帰国した。6年に満たない期間であったが、クライン博士の命がけの働きによって「名古屋英和学校(のちの名古屋学院)」は誕生し、歩みをはじめたのであった。

 その後、クライン博士はアメリカでメソジスト・プロテスタント教会の役職を歴任し生涯を神様と人のために捧げ尽くした。1926年メリーランド州バーウィンの自宅でこの世での働きを終え、神様の御許に帰った。

 明治の時代、日本全国にこのようなキリスト教学校が宣教師の尽力によって誕生した。宣教師の人格に触れ、多くの日本人が感化され、キリスト者となっていった。名古屋英和学校でも、クライン博士の生き方、信仰が生徒、教員に引き継がれていった。「敬神愛人」のバトンはその後、130年たった現在に至るまで受け継がれている。

(Kyodan Newsletterより)

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