ルカによる福音書1章46~56節
説教 近藤勝彦(東京神学大学学長)
低きにいる人々に
「マリアの賛歌」は「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。その理由は、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と言うのです。
「身分の低い」という表現には、サムエルの母ハンナが経験した苦しみに通じるものがあると解釈され、さらには社会的、経済的な低さとその苦しみを表しているとも理解されます。
しかしそれだけではないでしょう。マリアの「低さ」はイスラエルの苦難の歴史とつながっています(54節)。「身分の低い」という一言に、人類の慟哭の歴史が表現され、とりわけ世々の女性の悲しみが表現されています。
さらに、人間は誰もがこの「低さ」を経験するのではないでしょうか。低いところにある経験は、自分の存在の意味が感じられないことでもあり、私たち自身の経験でもあります。その低きにいる人々に、どのような「救い」が与られるのでしょうか。
神が目を留めてくださった
「マリアの賛歌」の主題は人類の「救い」は何かということです。そしてそれは「身分の低い、この主のはしため」にも「救い主である神が目を留めてくださった」ことにあると言うのです。マリアの謙遜ということもよく語られます。「主のはしため」というマリアの自己表現は確かに「謙遜」を表しています。しかしこの聖書の中心は、マリアの「謙遜」ではありません。そうではなく、あくまでも神の働きであり、神が「目を留めてくださった」こと、「わたしに目を留めてくださった」ことです。それが救いだと語っています。賛美されるべきは、「マリアの低さ」そのものではなく、存在の意味がないような私に、低きにいる人に、そして人類に「神が目を留めてくださった」ことです。主イエス・キリストがマリアに宿り、クリスマスに誕生し、そして主が今日も私たちと共にいてくださる。このことの中で神は私たちに目を留めてくださっています。そのことを「マリアの賛歌」は「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」(49節)と歌います。クリスマスは「神の偉大な業」を示しています。
「偉大なこと」とは、神が目を留めてくださったこと、尊き御名により、憐みを限りなく示し、偉大なる力を奮われたことです。それが、御子なる神を与え、共なる神としていてくださること、これこそが偉大なことです。これよりも偉大なことはありません。それで「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と歌われます。「今から後、いつの世の人」も、現代人も、そして未来の人もです。神が低きにいる人間に目を留めてくださり、御子においてご自身を与え、憐れみを示してくださった。これ以外に救いはありません。この救いが世の終りまで凌駕されることなく働き続ける救いであり、永遠に宣べ伝えられるべき救いです。
神御自身が与えられ
「救い」というのは、神が低きにいる人間に目を留め、御自身を与え、主イエス・キリストによって神と共に生きられるようにしてくださったことです。この神の「憐れみ」から引き離すものは何もないということです。感覚的に目に見える今の世界だけがあるのではありません。信仰を与えられ、信じ、信頼できるより確かな実在として生けるキリストの実在があります。
「救い」は、何かあることを達成することではないでしょう。健康や財産や、仕事や才能によって、幸いな境遇を獲得することでもありません。それらも確かに神からの「賜物」として与えられることもあるでしょう。しかし決定的な救いは、神以外の他の何かでなく、神御自身が与えられ、神との交わりが与えられることです。
宗教改革者マルティン・ルターは、マリアの賛歌について記しました。「私はあなたの賜物をではなく、ただあなた御自身を求めます」。神御自身を求めるとは、神が目を留め、憐れみ、愛してくださること、その神との交わりを求めることです。そしてルターは「私が不幸であるときにも、あなたの愛が減ったわけではありません」と言いました。経済的な不安があっても、健康の不安があっても「神よ、あなたの愛が減ったわけではありません」。救いはいささかも減ることなく、あなたが共にいてくださるなかで確かに十分に与えられています。
パウロは神を「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」と表現しました。そして神は、「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ロマ8・32)とも記しました。神は確かにすべてのものを与えてくださるに違いありません。神は私たちに今日という日を与え、教会を与え、友人や仲間を与えてくださいました。仕事や家庭や、今日の日差しも、神が与えてくださったすべてのものの一部です。しかしそのすべては、御子をくださったからです。御子をくださる仕方で、神が「わたしに目を留めてくださった」からです。私たちの中には、まだすべてをいただいていないという人もいるでしょう。しかしすでに私たちに目を留め、御子をくださり、憐れみを示し、愛の交わりのなかに入れてくださっている神を喜び、その憐れみを感謝することができます。たとえ不幸があったとしても、神が目を留めてくださっている救いの中におかれていることを確信することができます。
神御自身が大きくあるように
最後にマリアの「応答」についても一言触れたいと思います。
「わたしの魂は主をあがめる」「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。
これがマリアの応答です。「あがめる」には、「大きい」(メガ)という語が含まれていて、「大きくする」という意味です。偉大なことをしてくださった神を、私の中でも大きくする。それがマリアの応答です。 皆さんの中で神は大きくあるでしょうか。神を小さくして、信仰が生き生きするはずはありません。私たちの中で神がまことに神として大きくあるとき、私たちの不幸は小さくなります。神御自身が大きくあるように、私たちのうちでも大きくあっていただくとき、私たちは救いを経験します。
そして神を「喜びたたえ」ます。神にありのままに大きくいていただく信仰、そしてその憐れみを大いに喜ぶ信仰、この信仰に私たちも生きたいと思います。そして伝えたいと思います。神はこの私にも、あなたにも目を留めてくださっているのですから。
(東京神学大学学長)