創世記1章27節
人間の聖なる像を自覚させる
20数年の牧師生活の中で読んだ本から、忘れ得ない幾つもの言葉をいただいてきましたが、その一つに次のようなものがあります。ユダヤ人思想家A・J・ヘシェルの「人間の聖なる像を自覚させる。おそらくこれが宗教教育における中心的課題であろう」という文章です。(『神と人間のあいだ』教文館、357頁)私は、「宗教教育」という言葉を礼拝とか信仰生活におきかえて、牧会の何よりもの課題を教示してくれる言葉としていつも心に刻んできました。
では、この人間の聖なる像とはどのようなものでしょうか。ヘシェルもそのところでふれていますし、すぐに私たちが思い至るのは、冒頭に掲げた創世記1章27節の御言葉です。いわゆる『神の似姿』と呼ばれるものですが、この内容を私は、創世記1章全体から次のようにとらえてきました。
創世記1章1節は、「初めに神は天地を創造された」と始まります。これは、神はいついかなるときにも創造者であって下さるとのことです。破壊者である人間や、様々な力を越えて、神は創造者であられるとは、何と慰め深いことでしょう。
またこの1章では、ご承知のように神の造られたものは良かったということが繰り返されています。
神が私たちに刻んだ聖なる像
こうした御言葉から、神が私たちに刻んだ聖なる像とは、私たちが良いもの・美しいものを創造することのできる力だということができます。ところで、創造性とはおのずと環境や周りの事物に積極的・主体的に係わり、物事を変革してゆくこととして現れます。そこで創世記1章28節では、「従わせよ、支配せよ」との祝福が与えられているのです。
このように聖なる像をとらえる所から、幾つかの洞察や慰め・励ましが与えられます。
まず第一には、この聖なる像は、永遠なる神様に由来する像であり、神様から授かった永遠の宝なのですから、どんなことがあっても損なわれたり喪失されるものではないということです。どこまでも私たち人間の中にあって、その輝きを失うことはないのです。パウロが言うように「このような宝を土の器の中に持っている」のです。
私たちはしばしば土の器たる心身の壊れや破れに左右されます。土の器を取り巻く社会的・経済的な事柄に支配されます。所詮は奴隷なのだ!と嘆きます。しかし私たちは土の器の中に決して損なわれ得ない宝を持っており、これを用い、それこそイエスさまがタラントのたとえ話で言われたように、『商売』をして利益を上げ、人生を新しく良いものに創造してゆけるものなのです。
我々でも別の人間になれる
これもまた、忘れることの出来ない文章の一つですが、自らがヒトラーの強制収容所を生き延び、長くアメリカで精神科医として活躍したⅤ・E・フランクルが、ある著作の中で次のようなことを書いていました(『宿命を越えて、自己を越えて』春秋社、12頁以下)。
重罪人ばかりを収容するサン・クエンテイン刑務所で講演したときのこと、囚人はこんな感想をもらしたそうです。「沢山の心理学者や精神科医が来て、あなたがたがこうなったのは、あなたがたのせいではなく、(あなたがた自身ではどうしようもない)過去や子供時代のせいだと言ってくれる」。
それは彼らを慰め力付けるために言うわけですがそういわれると、首に石臼をぶらさげられているかのように彼らは感じます。過去や子供時代に支配されるどうにもならない人生だと烙印を押されているように感じるわけです。
ところがフランクルは違いました。「我々でも、自分の運命を、曲がりなりにも手中におさめることができる。我々でも別の人間になれる、と言ってくれた」。
私はこの文章から、私たち人間がいかなる環境に置かれても、その人生を自らの主体性をもって創造してゆくことがどれほどかけがいのないものかを教えられました。
そしてその源は、私たち自身から来るものではなく神から授かったものだということを、聖書を通して示されました。
永遠の宝の誤用は永遠の被害を
さて第二の洞察は次のようなことです。これは第一のことと表裏一体をなす事柄だと言ってよいと思いますが、このような永遠の宝を預かっているとすれば、これをその本来の用途に用いず、誤った使用をしたときには、そこから生じる被害はまことに甚大なものとなるということです。永遠の宝の誤用は永遠の被害をもたらすのです。
創世記3章の物語は、まさに誤用する私たちの姿を描いたものと言うことができます。人類最初の結婚の直後この夫婦は、神から授かった宝を自らが神となり生死を支配し、限界を越えて主人公となることに用いました。それが今日まで私たちに及ぼしている災禍はどれほどのものでしょうか。
2年ほど前JRの駅構内で殺傷事件を起こした青年が、取調官にもらした言葉を新聞の記事から読んだのを忘れることができません。「おれは自由だ、すべてだ」という趣旨のことを語ったそうです。彼の言葉には、神が彼に授けた創造性や支配性がほとばしり出ています。それを何とかして発揮しようとしたうめきを感じます。しかし彼は決定的にそれを誤用したのです!
ただお一人の全き似姿
だからこそ第三に、私たちはこの宝を誤用することなく、本来の用途にこれを用いなくてはなりません。神が私たちに刻まれた聖なる像を、本当の意味で取り戻さなくてはなりません。そこに私たちがイエス・キリストとつなげていただく必然性と不可避性があるのです。
イエス・キリストとはどのようなお方でしょう。新約聖書全体が証しするのは、この方こそ、人間の中でただお一人の全き神の似姿であったということです。
初代教会で成立した最も早期の信仰告白の一つとされるピリピ2章6節以下は、次のように始まります。「キリストは神のかたちであられた」(協会訳)と。この「かたち」とは、創世記に言う「似姿」と同じ内容なのか神学的なことは私にはわかりませんが、私は同じ事柄と受け止めます。
キリストはその神の形・似姿を、私共とは正反対に十字架の死に至るまでご自分を空しくし、低くされることで現されました。私はそこにこそ、キリストの創造性があり主体性と支配性の発露があり、美しさまた良さがあると信じるのです。
だからこそ、このお方を信じ、洗礼を授けられてこの方につなげられ、この方の聖をいただくことこそが、私たちにとって聖なる像を回復するただ一つの手段なのだと思います。
(郡山教会牧師)