菊地 順
(聖学院キリスト教センター所長)
学校法人聖学院は、アメリカのディサイプルス派の宣教師たちによって生み出されましたが、その最初の宣教師の一人、チャールズ・E・ガルストを紹介したいと思います。
ガルストは1883年に日本にやって来た宣教師です。このとき、ガルストは30歳でした。ガルストは、日本に来る前は、ウェスト・ポイントというアメリカの有名な陸軍士官学校を出た軍人でしたが、ガルストは自分から進んで士官学校に入った人ではありませんでした。初めは、アイオワ州立大学で2年間農学を学び、その後その方面の仕事をしましたが、ある時その能力と人柄を認められて陸軍士官学校に推薦されることになったのです。当時、ガルストの父親は医者をしていましたが、8人兄弟であったため、経済的にあまり豊かではありませんでした。おそらく、そういうこともあって、ガルストは19歳で推薦されるまま士官学校に入学することになったのです。
しかし、その4年間の士官学校時代に、ガルストは2つの重大な出来事を経験することになりました。一つは、母親の死です。母親は、アイルランドの出身で、非常に信仰心が厚く、ガルストには牧師になることを期待していました。もう一つの出来事は、宗教的信念の変化でした。ガルストは、当時さまざまに分裂していたキリスト教世界を再び一致させようという運動をしていたアイザック・エレットの呼びかけに深く共鳴するようになり、軍人として立身出世するよりも、キリストの一兵卒として、キリストと人類のために仕えたいと思うようになったのです。しかし、士官学校を卒業した者は8年間軍務に服さなければならないという規則がありましたので、ガルストは卒業後8年間軍務に服し、その間宣教師になる準備をしたのです。そして、同じ志を持つ女性ローラと結婚し、1883年、もう一組の宣教師夫婦であるスミス夫妻と共に、日本にやってきたのです。
その後、ガルスト夫妻は、半年ほど横浜で日本語の勉強をしてから、まだ宣教師が入っていない東北の地、秋田を選んで、スミス夫妻と共にそこに行くことになりました。
しかし、当時の秋田はまだまだ辺境の地で、古い日本の風習がそのまま残っていた地域でしたので、多くの苦労を経験しました。人々からは好奇の目で見られ、また難解な日本語に悪戦苦闘し、さらにキリスト教に対する偏見という大きな社会的壁にぶつかりました。そればかりか、ノミや蚊といった不衛生な環境にも苦しめられました。そして、そうした困難な生活の中で、一緒に秋田に行ったスミス宣教師の妻ジョセフィンが、着任の翌年、8歳の娘を残して病死するという悲劇が生じました。
しかし、そうした宣教師たちの生き様は、徐々に人々に深い感銘を与えることになり、ガルストたちの働きは次第に受け入れられていったのです。そして、秋田での4年間の生活は実に実り多いものとなりました。
その後、ガルスト夫妻は、さらに活動の範囲を広げるために、山形県の鶴岡という町に移り、そこでさらに4年間活動します。そしてその後、休暇で1年アメリカに帰りますが、1893年、再び家族と共に日本に戻り、今度は東京に居を構えながら、全国を伝道して回ったのです。その間、ガルストは、キリスト教の伝道だけではなく、政治や税制についてもしばしば重要な発言をし、特に税制に関しては、自ら「単税太郎」と名乗って「単税論」を唱え、税の不公平をなくすよう努力しました。また多くの政治家や社会活動家の相談役にもなりました。伊藤博文は、そうしたガルストの働きを高く評価し、「西洋は未だかつてチャールズ・E・ガルストに勝る贈物を送ったことがない」と語ったほどでした。
しかし、そうした多忙な働きのために、健康を著しく損なってしまいます。それには、秋田時代から何度か重い病に見舞われ、次第に健康を損なっていたことも影響していました。そして1898年12月28日、日本の地で45歳の生涯を閉じることになったのです。今でも、その墓は、東京の青山霊園にあります。
ガルスト宣教師は、感銘深い言葉をたくさん残していますが、亡くなる直前に、遺言はないかと妻から尋ねられた時、こういう言葉を語っています。それは、「My life is my message」という言葉です。その遺言が示すように、ガルスト宣教師は、正にその生き様そのものを通して、日本人にキリストのメッセージを語った人であったと言えます。(Kyodan Newsletterより)