山北宣久議長は、聖書日課に従いマルコ福音書9章2~8節に基づき、次のような主旨で開会礼拝説教を語り、宣教方策会議、また教団の進路を示した。
主は何のために山に登られたのか、祈るためであり、祈りは使命の再確認のためであった。直前のマルコ8章31節で、主ご自身が十字架に架けられることを明確に述べられた。十字架を目指す第一歩のために、先ず退いて祈られ、そのために山に登られた。事をなすに当たって先ず祈る、前進する時には退いて祈り体制を整える、それが主イエスにあって私たちの取るべき姿勢だ。
何をなすべきかの前に、如何にあるべきかを整えなければならない。あらゆる行動において大切なことだ。特に人間のいろいろな考えが交錯する会議に於いては、祈りなくしては何も実を結ばない。祈りを経ない行動は思い付きに終わり、沈黙を経ない行動は、悪くすれば混乱を招く。
神は私に何をさせようとしているのか、綿々と68年続いて来た日本基督教団に、何をさせようとしているのかを、神あっての私たちという線で軌道修正したい。主イエスがそうであったから。
主イエスは何より祈るために山に登り、そして十字架に向かって行かれる。私たちの取るべき姿勢はそこに定まっている。
『イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった』。僕の形を取り人間の姿になられた主イエスの、隠されていた主の本当の姿が一瞬顕わになったことだ。隠されていた神の子の姿が垣間見られた。それが山上の変貌であった。
『エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた』。何を。十字架について語り合っていたのか。最後のことについて話していたのだ。最後のことには、エクソダスという言葉が使われている。栄光への脱出・エクソダス、しかし、栄光への旅立ちは、十字架を経なければならない。その筋道をはっきりさせる。
主の十字架の後、人間の苦しみは単なる苦しみに終わるものではなくて、栄光へと導かれる、その道筋が決定的に開かれようとしている。エリヤとモーセとを証人として、これが聖書を貫く線であることを明らかにした。
ペトロが口を挟んだのは、一瞬を永遠に止めようとしたことだ。しかし、主イエスは、モーセメモリアルチャペルのようなものを許されない。栄光は、十字架を通してしか現れない。仮小屋を建てその中にまどろむことは許されない。
かくしてマルコ福音書は、栄光の神学から十字架の神学へ向かう方向をはっきりと叙述することになる。このことが『これはわたしの愛する子。これに聞け』と言う言葉で、垂直的に語られる。
主イエスがバプテスマを受けた時の言葉に、この度は『これに聞け』と付け加えられている。先に水によるバプテスマを受けたが、今度は血によるバプテスマを受けんとする。『わたしの愛する子。これに聞け』だ。
十字架の苦難と恥を受けてまで、無制限に自分を与えて下さるイエスに、あなたがたは聞くのだということだ。
いろいろな声が交錯する中で、日本基督教団は十字架の直下に立ち、そこから絞り出される神の愛する子の声に聞き従わなくてはならない。そこからしか、教団の将来は開かれない。
山上の変貌は、弟子の信仰告白、『自分を捨て自分の十字架を負うて従いなさい』という言葉に続いて起こっている。
人と自分の思いが激しく交差する。私の思いと神の御旨がクロスする。その激しい葛藤、迷い、悩みから逃げず離れず諦めず、そこに止まり続け意味を求めつつ前向きに生きる、その時、苦難から栄光へ、十字架から復活へと至る救いの道が開かれ、導かれていく。
取り分け苦難に満ちた伝道戦線を、勇気を持って担う者は、やがて勝利の輝きへと導かれるだろう。