真実な礼拝 八木原敬一 (喜多方教会牧師)
今からもうかれこれ30年以上も前になる。当時わたしは、映画の仕事をしており、東北の小さな町でロケをしていた。
洗礼を受けてから(厳密に言えば「堅信礼」だが)一年ほど経っていたが、教会生活はあまり熱心ではなかった。
サラリーマンとは違って、曜日には関係のない不規則な生活。だから礼拝も、行ったり行かなかったり。
その日はたまたま撮影が日曜日に休みになり、自転車を借りて市内見物に出かけた。
すると駅前から道を数本隔てた場所で小さな教会に出合った。
「へェ~、ここに教会があるんだァ」
ちょっとうれしい驚きといっしょに、思いがけない場所で懐かしい人に出合ったような感動をおぼえた。
子どもの頃通っていた九州の小さな教会を、中学1年の時に父親の転勤で去ってから、東京の比較的大きな教会ばかりを見ていたので、偶然出くわした田舎の小さな教会がとても懐かしかった。
全国どこにでも教会はある、それを見ていたはずなのに、目に入っていなかった。今思うと、その出合いがわたしの人生を変えた。
掲示板の案内を見ると、ちょうど礼拝が始まる時間。
実はそのまま通り過ぎようとも思ったのだが、なにかバチがあたるような気がして、中に入った。
入ると、幼稚園の広い園舎に、パイプイスをこぢんまりと並べた礼拝堂である。見まわすとご高齢の婦人が多く、10人ほど。
オルガンがなく、今のようにヒムプレーヤーもなかった時代だから、若い牧師先生が賛美歌を歌い始めるとみんなが歌い出した。
でも、穏やかで落ち着いた雰囲気は「ここには何か確かなものがある」と魅かれるものを感じた。
礼拝が終るとみんなで車座になってお茶を飲んだ。
話の内容は覚えていないが、教会を出て、予定通り市内見物をする頃にはとても温かい気持ちになり、心の半分はその教会のことを考えていた。
ここにも教会があり、主イエスの福音を待ち望んでいる方たちがおられる。そして、福音を語る牧師がもとめられている。
いつかはボクも牧師になれるかなァ...これが、わたしの召命の最初だった。
だが、それは一粒の泡のような思いにすぎなかった。それから10年を経ても、ポツリポツリと時おり思い出すだけ。
神学校に行こうかな...行きたいな...行かなければ...
「でも、仕事がおもしろいからとりあえず定年になってから考えよう」
しかし、神のご計画はおもしろい。
今だからこそ「おもしろい」と言えるのだが、その時のわたしにとっては不幸のどん底に落ちたような気持ちだった。
それは母の病気。今の言葉で言えば「認知症」に罹り、わたしは映画会社を辞める決心をした。
家にいてできるPR映画の企画や台本の仕事をしながら、しばらく母を家で介護した。母が入院して、わたしは思いがけなく神学校に入り、牧師になった。
最初の赴任地は東京だったが、現在の教会は、その小さな教会と同じ東北。
今こう、心秘かに思っている。
「現在のわたしの課題は、後継の牧師探し。それにはたとえ会堂が小さく人数が少なくても『ここには確かに真実がある』と思えるような礼拝と牧会をしなければ」