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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4670号】過疎化が進む島根県で 出雲・松江、諸教会訪問記②

2009年3月14日

出雲・松江、諸教会訪問記②   ▼松江 ▼松江北堀

迫害・火災、試練を乗り越え 松江教会

松江教会は、松江城の内堀から直線距離なら二〇〇メートルと離れていない閑静な住宅地のなかにある。図書館、県庁は目の前、市役所、宍道湖傍の松江温泉街も遠くない。立地条件は悪くはないのだが、しかし狭い。この界隈では普通の民家程度の敷地で、駐車場がない。勿論、礼拝堂、集会室、牧師館と全て窮屈 だ。しかも、土地は借地。
訪問した週の週報に、会計報告が載っていた。土地購入会計繰越金の項を見ると、約四〇〇万円が積み立てられている。土地の入手は、何十年来の懸案と聞く。
この狭い会堂に、かつては五〇名の礼拝出席があった。最新の教団年鑑では、平均二四名。会員数も四〇名と記載されている。
松江教会はその名前から分かるように、松江市内の教団諸教会中最も古い歴史を持つ。しかし、戦時中、弾圧によって礼拝休止となり、会員は一時、隣の松江北堀教会等に身を寄せていた。戦後、ゼロむしろマイナスから再スタートした。その後、火災にも遭った。困難な時を支え、教会を形成した教会員が、一人二人と召され、 数の上ではすっかり弱ってしまった。宗盛興師は赴任以来二〇名の葬儀を司ったが、結婚式は二件だけと言う。
しかし、今身をかがめもう一度ジャンプしようとしている。何しろ、戦争・迫害に耐え信仰を守り通したホーリネスに繋がる信徒たちなのだ。
その教会復興をリードするのは牧師夫妻。献身の思いを抱いたのは妻・宗保子師の方が早かったが、夫の献身、単身での神学校入学、赴任、全てが整えられるのを待って、二〇〇一年Cコース受験により教職となった。「夫婦仲は悪いが、教職としては理解し合い助け合っている」と、これは盛興師のジョーク。
三、六、六、三、これは今回取り上げた松江・出雲地域諸教会の最近の牧師在任年数。経済的な事情もあり、在任年数が極端に短い。その中で、松江教会は、宗盛興師十三年目、前任の吉仲将師(現在松永教会)三三年、清水良太郎師は戦後間もなくから、十三年。ここに松江教会の特徴が現れる。宗盛興師は、町のコーラスグル ープに参加、町内活動に取り組み、じっくり時間をかけて、長期的展望をもって伝道牧会に当たる姿勢を持つ。教会員もそれに共感する。
土地購入が新しい伝道の幻につながり、新会堂が建てられ、讃美の声が溢れる日を夢見て、日々の営みが続けられている。

真剣で御言葉に向かい合う 松江北堀教会

松江北堀教会の未だ真新しい会堂は、『日本の面影』が濃く残る松江の町並みに調和すべく、木造のしっとりと落ち着いた雰囲気を持っている。
一九九五年の会堂建築は、地方紙の特集記事がきっかけだった。松江市内の若手建築家たちが、優れた建築物を一冊のアルバムに残した。そのタイトルは、『やがて消え行く記念碑的建物』。新聞に載ったのは、正しく松江北堀教会礼拝堂。築六〇年を越え、酷く老朽化していた。しかし、古いだけでは、アルバムに収蔵されるこ とも紙面を飾ることもない。六〇年七〇年経った時に、同様に評価されるような会堂を新築しようと声が湧いた。
その時点で会員四〇名、献金の口数は二七。予算は六五〇〇万円。蓄えゼロから始めて、四年後に会堂が建った。全国募金の趣意書に、献金して下さいという文章はなかった。祈りに覚えて下さいと記された。賛同人に有名牧師が名を連ねることもなかった。会員四〇名の名前を記した。
集まった全国募金は約八〇〇万円、予想を超えた。献堂式の時、業者への支払いは全て終え、借入金の類は全く無かったという。
間もなく迎えたペンテコステ、礼拝後一人の婦人が牧師に面会を求め、説教で語られた「教会の幻」を実現するためにと、二〇〇〇万円の献金を申し出た。隣接地を購入し駐車場を確保するという夢は、タイミングを失して叶えられなかった。しかし、今、当初目当てにした土地とは反対側隣家に、松江北堀教会別館の看板が掛け られている。電力会社の社宅を買い取ったものだ。売却の話に即応できたのには、かつての献金の蓄えが力となった。
『東京帝大を卒業と同時に旧制松江高校教授として赴任してきた松原武夫という一青年学者が下宿で家庭集会を開き、翌年には大学と教会で同窓だった神学校新卒の小塩力師を迎えた。それぞれが結婚し教勢は倍になった...「教会史の覚え書き」から』という出発点から、松江北堀教会の歴史は始まった。因みに、会堂敷地は、松 原が個人で購入し献げたもの。旧会堂は当時の婦人伝道会社の援助も受け、四竈一郎牧師の時、一九三五年に建てられた。
土地と建物のことだけを記した格好だが、勿論、この間に教会を立て守ったのは人数こそ多くはないが、真剣で御言葉に向い合う一人ひとりの教会員。山陰東のどの教会にも共通することだが、この地で福音を掲げる者の覚悟は、並大抵のものではない。
昨年四月、井上理師を迎え、新たなる歴史が書き加えられようとしている。別館を利用しての沢山の地域活動、ホームページ、玄関に置かれたレストラン風の洒落た集会案内看板、新しい風が吹き始めている。

闇の中で強い光を放つ

山陰東分区の版図を説明することは難しい。島根県とイコールではない。出雲市と松江市の周辺とも言えない。隠岐があり、雲南地方の横田がある。昔の隠岐と出雲と言うのも正確ではない。出雲以西益田まで車で一三〇キロ、教団の教会は存在しない。益田は山口県内の他の三教会と山陰西分区を形成し、津和野は山口中 分区に属する。要するに、島根県には、松江市にこそ四教会があるものの、他ではポツンと点在するに過ぎず、教会の全くない市町村が多いということ。
キリスト教主義の学校は、ローマ・カトリックと無教会が全校生徒数十人のごく小規模のものを持つだけ。数年前までは過疎化率全国一位と言われた。数年前まで?、上昇に転じたのではなく、限界まで減った結果、過疎化率は下げ止めしたというだけ。所謂限界集落が多く、島根県全体が限界県に近づいている。
その他にも、何故この地域でキリスト教が奮わないか、いくらでも理由を挙げることができる。
しかし、この地で、過去百年以上、福音が伝えられて来たし、今も伝えられている。諸教会が、そして信徒一人ひとりが、「闇の中で輝く光のように」、強い光を放っている。この光を、升の下に置いてはならない。 山陰東分区の内、隠岐はかつて「伝道の灯火」で掲載した。横田相愛、安来は他の機会に取材したい。

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