つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。《コリントの信徒への手紙二 5章19節》
どうして一つになれないのか
地球は北半球と南半球に分かれますが、それが単に地理的なことだけではないという現実をわたしたちは知っています。政治的な南北問題があります。先進国と途上国という分け方があります。東と西も資本主義と社会主義という分け方になります。右と左も保守かリベラルかという分け方になります。もちろん教会も例外ではありません。それは歴史を見れば明らかなことです。またわたしたちの身近な人間関係もそうです。派閥をつくり、あらゆるものが二極化していきます。自分の独りよがりな正義感を振りかざして対極を作り出すのです。そのように人類は絶えず分断し二極化していく歴史を繰り返して来ました。
わたしたちはどうして一つになれないのでしょう。それは人類の永遠のテーマだと思いますが、聖書が明らかにしているのは、その根本にある罪の問題であります。創世記に天地創造の物語があります。神さまがこの世界をお造りになられ、最後に人を造られました。神さまは造られた全てのものをご覧になられて「極めて良かった」(創世記1・31)と言われました。そこには良い関係がありました。ところがその関係を人は壊してしまいます。神さまとの約束を破ってしまったのです。すると人は神さまの前から姿を隠しました。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」(創世記3・8~9)。ここに神さまと人との隔たりが生じています。この隔たりこそ、わたしたちが分断を繰り返し、二極化していく現実を作り出していると言えるでしょう。そして聖書はこの隔たりを、例えば天と地、生と死、光と闇、そういう二つの相反するものを用いて表現しています。神さまと人がそのように全く相容れないものになってしまった。遠く隔たってしまった。この罪がわたしたちのあらゆる隔たりの根底にあるのです。
キリストにおいて天と地が結ばれた
クリスマスは、神さまが天と地、光と闇、この相容れない隔たりを越えて、その距離を限りなく近づけてくださった出来事です。ルカ福音書が伝えるあの羊飼いの物語を思い起こしてみましょう。羊飼いは夜通し羊の群れの番をしていました。彼らを支配する真夜中の闇、それは他でもないわたしたちの罪の闇を示しています。すると突然、その闇を引き裂くようにして、天からの光が射し込むのです。「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」(2・9)。ちょうど上からスポットライトを照らされたような光景でしょうか。その天の光に羊飼いたちは恐れました。無理もありません。神さまから離れ、罪の闇に慣れていたわたしたちにとって、天の光はあまりにも眩しく近づき難いものだったからです。
しかし、その彼らのところに救い主誕生の知らせは届きました。神さま自ら救いの手を差し伸べてくださったのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2・11)。そしてそこに天使の歌声が響きました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(2・14)。この物語は「光と闇」「天と地」のコントラストを示すと共に、その隔たりが狭められていくことを感覚的にイメージさせています。夜の闇に光が射し込む。そして神さまの声が、天使の歌声が地上に達する。深い隔たりを越えて天が限りなく地上に近づいてくる。それがクリスマスのメッセージです。
そしてクリスマスの物語の中心は言うまでもなく、神さまがまことの人として生まれてくださったイエス・キリストの受肉にあります。天と地の隔たりを越えて神さまがご自身を地上に現された。大きく分断され対極にあった天と地がキリストにおいて結ばれたのです。そしてこのキリストによって、神さまはわたしたちの罪を赦し、和解の道を開いてくださいました。
しかしこの和解は、わたしたちの罪を水に流し、うやむやにすることでは決してありません。わたしたちの罪の責任は神の独り子が十字架で負われました。この尊い御子の命をもって、わたしたちは罪を赦され、神さまと和解させていただいたのです。わたしたちが自分で償ったのではありません。神さまの方が自ら歩み寄られ、この罪を贖ってくださったのです。そこに救いがあります。そしてこの恵みを知る時に、わたしたちも御前に罪を告白し、悔い改めて生きる真の和解への歩みが始められます。
和解の言葉がゆだねられている
神さまはこの和解の福音を教会に委ねてくださいました。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(2コリント5・19)。この和解の言葉とはイエス・キリストご自身です。分断され、二極化していくこの世に神さまは和解の言葉としてイエス・キリストを与えてくださいました。この和解の言葉がわたしたちの中に受肉したのです。そして和解の言葉を宿したわたしたちもまた和解のために奉仕する者として新しく歩み出すのです。それは罪をうやむやにすることを意味していません。罪を深く自覚し、これを悔い改めて、そこから新しい関係を築いていくことを可能にします。
クリスマスは平和の祭典です。天と地の隔たりを越えて神さまが来られたとき、その闇を裂いて光を届かせてくださったときです。そのような機会を神さまはこの争いの絶えない人類に与えてくださいました。だからこそ、わたしたちもまたこのクリスマスから新しく歩み出すのです。関係が悪くなっているならば、自分から歩み寄りましょう。自分から手を差し伸べてみましょう。疎遠になっている関係があるならばカードを出してみましょう。訪問してみましょう。クリスマスはそういう新しい行動を始める時なのです。それは自分のちっぽけな優しさや、寛大さによるものではありません。罪に対して妥協することでは決してないのです。痛いほどに罪を知り、これを嘆く中でキリストの和解の恵みに生かされた者たちは、皆そのように生きることができるのです。そこにわたしたちの希望があります。
(錦ヶ丘教会牧師)