1875年4月15日に、エディンバラ医療宣教会のセオバルド・A・パームが、東京で日本語を学んだ後に新潟に着任した。パームは1848年にセイロン・コロンボで宣教師の子として生まれた。エディンバラ大学医学部を卒業したバプテストの外科医で、大学卒業と同時に結婚した直後の1874年に夫人と共に来日した。パームは医療宣教師のJ・C・ヘボンと相談した上で、五港の中でまだ宣教師がいない「最も困難な土地」を選んだ。新潟に来る3か月前に出産直後の母子を失った中で新潟にやって来た。
パームは東京から同行した料理人の水谷惣五郎・哲子夫妻と日本語教師の陶山昶、通訳として横浜から派遣された雨森信成によって支援された。病院兼自宅は湊町三丁目に建てられたが、1年後に病院を拡張して本町に移転した。パーム病院では、朝9時から集まった患者たちを前に説教がなされ、その後に朝10時から診察と治療が行なわれ、夕方には伝道会が開かれていた。最初は雨森が説教し、パームは診察と治療に努めた。夜の伝道会ではパームが説教し、雨森が通訳した。雨森が横浜に去った後にパームがS・R・ブラウンに懇願して 押川方義が横浜から派遣された。押川はパームの協力者となり、パーム病院は医療と宣教の場ばかりではなく、パームが聖書を教え押川が神学を教えて、地元の伝道者を育成する神学塾も兼ねていた。
1877年には、遠方から患者が来るようになり、また中条、村上、新発田、長岡では蘭学医の要請を受けて、パームは出張医療宣教を始めた。船や人力車や徒歩で出かけ、日中には診察と治療を行い、夜には伝道会を行った。パームは佐渡島を一度、亀田、水原、葛塚、中条、新発田、沼垂、長岡を定期的に訪問するようになった。その頃、吉田亀太郎は石油採掘事業のために中条に来ていたが、押川の伝道説教を聴いて、キリスト教に回心して伝道者となり、押川の協力者となった。
パームは1878年に28人の信者によって新潟で教会が組織されたことを報告している(アメリカン・ボード大阪総会報告書「日本のプロテスタント宣教史」1883年、北日本ミッション「第一次年次報告」1884年度)。パームも押川も超教派主義であり、いずれの教派にも属さない「新潟公会」がこの年に組織された。1879年には中条に講義所が開設され、講義所は次第に増加した。同年にパームは函館の宣教師の娘イサベルと再婚した。
1880年に新潟大火が起こり、パーム病院も焼け落ちてしまった。押川は吉田と共にこの機に、パームの父が牧会するロッテルダム・スコットランド人教会の支援を受けて「日本のスコットランドに」という使命で東北宣教に転じ、宮城県、福島県、山形県などに諸教会を創設し、東北学院と宮城学院を創立した。
1881年にパーム病院が西大畑の南浜通二番町に再建され、その翌年にF・J・ショウが看護婦として着任し、ロンドンの聖トーマス病院でナイティンゲールから学んだ精神と看護方法を日本で最初に伝えた。
1883年にパームは妻の健康のためと休養のために、一時帰国することにした。その間のパーム病院を大和田清晴、虎太郎医師父子に任せ、医療宣教をアメリカンボードに委ねたが、パームは終末論の理解の神学問題で宣教会から来日が認められず、村医としてイギリスに留まった。アメリカン・ボードは医療宣教から新潟女学校・北越学館(敬和学園の精神的前身)を支援する教育宣教へと方針を転じ、その宣教方針の転換と相前後して、「新潟公会」は東中通教会と新潟教会に分かれて行った。
パームは1875年から1883年の8年半の間に、新潟県の下越地方と中越地方で、延べ4万人の人々に医療を施し、150~160人の重症患者に外科手術を施し、眼科の治療でも評判がよく、104人の信者に洗礼を授け、新潟県のプロテスタントの諸教会の背骨を形成した。
(Kyodan Newsletterより)