頌栄保育学院は、1889年10月に頌栄保姆伝習所を、11月に頌栄幼稚園を開設し、以来伝習所が頌栄保育専攻学校、頌栄短期大学と名称を変更し、頌栄幼稚園と共に今日に至っている。現存する保育者養成機関としては日本最古である。
頌栄創立者A.L.ハウは、1852年1月12日、マサチューセッツ州ブルックラインにて出生した。父・チャールスは典型的なフロンティアで、やがてイリノイ州クリフトンの広大な土地を開拓し農園を経営した。母・メリーは強固な信仰と豊かな芸術的天分をもち、演奏家としても力を発揮していた。夫妻は、ベタニア・ユニオン教会に属し、父は日曜学校長、母はオルガニストを務め、日曜日午後には自宅を開放して礼拝を守り、パーティを開いて開拓者コミュニティの中心的家庭であった。
ハウは、イリノイ州クリフトンの公立学校およびニューハンプシャーの私立学校において初・中等教育を終えた後、1867年ロックフォード女子セミナリー(ロックフォード・カレッジの前身)に入学、音楽を専攻した。ちなみに神戸女子神学校(現・神戸女学院)創立者J.ダッドレーもこの出身者である。同校を卒業後、ハウはディアボーン女子セミナリーにおいてさらに音楽の研鑽を積んでいる。
その後ハウ一家はシカゴ郊外ロングウッドに転居したが、妹メアリーの幼稚園課程専攻に心動かされたハウは、アリス・H・パットナムがシカゴに1874年に創立したシカゴ・フレーベル協会保母養成所に入学、保母資格を取得した。1878年には、中部婦人伝道会幹事ブラッチフォード夫人の後援により貧困家庭子女のために設けられた幼稚園に妹メアリーと共に勤務した。
1874年、神戸に誕生した摂津第一公会(現・日本キリスト教団神戸教会)を中心とする神戸婦人会が幼稚園の設立を強く祈り求め、アメリカン・ボードに幼児教育の指導者の派遣を要請した。J.デイヴィスが愛妻の死去に伴い一時帰国し、1886年10月27、28日シカゴ郊外オーク・パーク教会にて行われた中部婦人伝道会年会において講演、日本の神戸における幼稚園のための教師を必要としているとアピールし、これに感激しこれを自分の使命と確信して1887年に来日したのがハウであり、2年後に頌栄が創立された。この創立経緯も頌栄独自のものである。
来日間もないハウは、神戸YMCAとアメリカン・ボードが共同で開校した英語学校で英語を教えつつ、自ら日本語を学び、さらにピアノ教師、バイブルクラスやオルガニストの要請に応えつつ、幼稚園設立に向け準備を行い、当時神戸にあった3つの幼稚園を見学するなどしつつ、保母へのフレーベル遊具の指導なども行った。ハウを招致した神戸婦人会と共に、園舎・校舎の建築、伝習所の授業計画、幼児唱歌の翻訳等、準備を整え頌栄が創立された。ハウ来日の目的は幼児教育であったが、幼児教育の前に保育者養成が急務であり、まず頌栄保母伝習所が設立され、2週間遅れて頌栄幼稚園が開設された。当時の日本社会は未だ幼児教育に対しての理解や関心は極めて薄かったが、ハウの忍耐と努力により幼稚園も定員を満たして順調に歩みを続けた。
ハウは、未だ幼児教育に関する教科書のない時代に、教科書の作成にも貢献している。「幼稚園唱歌集」(ハウ選、1892年)、「保育学初歩」(ハウ著、1893年)、「クリスマス唱歌」(ハウ選、1894年)、「七少姉妹・一名地理入門」(アンドリュー著、坂田幸三郎訳、1895年)、「幼稚園唱歌続編」(ハウ選、1896年)、「母の遊戯および育児歌上・下」(フレーベル著、ハウ訳、1897年)、「人の教育」(フレーベル著・ハウ訳、1898年)と、毎年教科書出版にも努力し、特に「保育学初歩」は講義ノートを書物として纏め、フレーベルの恩物の理論と指導法がわかりやすく述べられている。また「母の遊戯および育児歌上・下」には、フレーベルの原著にある母と子の絵を和風の着物に書き換えるなどの工夫もなされている。いずれにしても幼児教育の開花期に、保育室での実践と様々な講義と実技指導、さらに教科書の出版など日本の幼児教育の先駆者としての役割を十分に担ったのがハウである。
ハウは、1927年10月17日に頌栄を辞して帰国、1943年10月25日ニューヨーク州ローチェスターにて91歳で召天した。なお、1940年ハウは日本での教育功労が認められ、天皇より藍綬褒章が授与されている。日米開戦の前年にもかかわらず贈られたこの受賞は、ハウの働きがいかに大きかったかを物語っている。
(Kyodan Newsletterより)