説教が思わぬ聞かれ方をするのを経験する。果たしてそんなこと語っただろうか、と驚かされるような事後の印象や感想を聞くことがある。肯定的な内容においても、否定的なそれにおいても。▼説教が取扱説明書のように間違えなくキリスト者の生活を導き指導するマニュアルであるなら間違って聞かれてはならない。しかし、説教は1+1が2というようには合理的には聞かれていない。語るほうも、どこかで理屈が破綻していることを自覚している。しかし、その非合理、非効率な語りで励まされたり、戒められたり、教えられたりする。不思議な言葉の営みだ。▼確かに、語る意図として間違いなく聞いてほしいと願い語ることもある。説教にはそういった教育の要素が皆無ではない。そうではあっても聞き手の心を説教者が支配するようには教えることは決してできない。それが出来たら、また、していたら恐ろしいことである。▼本紙の編集、校正、発行作業で一語削り、一字加える。「が」を「は」に代える。それだけで読み方が全く違ってくることを経験する。読まれ間違いが無いよう細心の注意をしても、そう読まれたか、ということを経験する。